2012年6月3日日曜日

〔再録〕なぜ荷風は美食への拘り持たなかったのか?


「荷風のこだわり」(東理夫)


今晩の日経夕刊に東理夫が書い ている:
酒や食べ物や服装などに意見を持っていた荷風も、最晩年は丸めがねにヨレヨレの洋服、それに下駄ばき で、しかもほとんど毎日、並のカツ丼と上新香とお酒一合をくり返し食べている。まるで、別人のようだ、と書いたところで、実は荷風のこだわりは方向性が変 わっただけで、少しも弱まっていないことに気づかされた。
そうかな。散人はそう思わない。

「グラスの縁から」と題する東 理夫の連続コラムである。この方の美食とお酒へのこだわりは相当のもので、いつも感心して読ませていただいているが、今晩の荷風についてのくだりはいただ けない。荷風は美食へのこだわりは持っていなかったと思うからである。

たしかに荷風は美食についての蘊蓄を傾けたことはあ る。しかしそれは「物まね文化でしかない明治大正の日本の美食文化への痛烈な風刺」という側面が強いのである。明治の皮相的な近代化文化は、もったいぶっ てカッコウ付けだけをしているが、お前らのやっていることはしょせん底が浅い物まねでしかないよと言いたかったのだ。実際の荷風は実食への関心は全くな かった(と言っていいと思う)。だから京成八幡駅前の大黒家の「甘くてべちゃべちゃする」カツ丼もものとはしなかった。栄養さえあればどうでもよかったの である。

これは荷風がサムライ家庭において教育を受けたこと と、自分で経験した最初の外国生活がアメリカ、それも西海岸であったことと関係があるように思える。美食にこだわった谷崎潤一郎と根本的に異なる点かも知 れない。

これは悲しいことであろうか。散人も実は長くそう思っ てきた。でも昨今の日本のグルメ文化の蔓延を見るにつけだんだん荷風の方が正しいと思うようになった。物知り顔で美食を語る文化人の文章を見るにつけ、荷 風のように「知ったかぶりしてカッコウつけるんじゃないよ」と毒づきたくなることもある。荷風の時代から半世紀が経過しているが、日本の「背伸び(こだわ り)文化」は大して変化していないと感じる。

食い物のスタイルにこだわるのは、カッコウが悪い。荷 風はカッコウの悪さを第一に嫌ったのである。

Posted: Sat - February 21, 2004 at 10:22 PM   Letter from Yochomachi   永井荷風       Comments (5)  

〔再録〕永井荷風の終焉の家の今、門だけは当時のまま


永井荷風の終焉の家の今、門だけは当時のまま


昭和34年4月30日未明、永 井荷風が亡くなる。大正7年から延々と書き続けてきた日記『断腸亭日乗』の最後の記載は:
四月二十九日。祭日。陰。
というもの。これを書いて、あとしばらくして食べたものを吐いて窒息死した。胃潰瘍だった。翌朝やって来た家政婦が遺体を発見。

その後の展開は有名なものだ。 佐藤春夫が葬式の様を詳しく書いているし、半藤一利も目撃談を詳しく週刊文春の記事に書いた。永井荷風のような大作家が、ひとりで誰にも看取られず、犬猫 のように陋屋で死んでしまったと言うことで、社会に大ショックを与えた。何という惨めな死に方だ、というのだ。

当時の社会風土からすればそういうことかも知れない が、平成の世になってみれば、誰の迷惑もかけず、ひとりで最後まで生きて死んだ、何かまるで大往生のように見えるから、世の中たしかに変わった。もう二十 年もするとこういう最期が一番望ましいと、誰もが考えるようになるのではないか。老人介護や介護保険の在り方も、あまり現在の考え方を基準にして設計しな い方がいいのかも知れない。誰もがグループホームみたいなところで和気あいあいとするのを望むとは限らないのである。

ところで荷風の終焉の家だが、いま荷風の養子さんが住 んでおられるが、また改築されたようで外観がかなり変わった。でも門だけは昔通り残っている。荷風は毎日引き開けた門である。先月市川に行った際に写真を 撮ってきたのでご紹介:


Posted: Fri - April 30, 2004 at 06:42 PM   Letter from Yochomachi   永井荷風       Comments (15)

〔再録〕永井荷風の生涯』(小門勝二)……小門勝二が嫌いな人もこれを読めば考えが変わるかも


永井荷風の生涯』(小門勝二)……小門勝二が嫌いな人もこれを読めば考えが変わるかも


昨日の神保町。八木書店で荷風 関係の出物はないかと探したが、めぼしいものはなく、結局小門勝二の本を買うこととした。この人の荷風関連の本は、実に多数出ていて、多くは「大したこと ない」というので(坪内祐三なんかは「小門勝二は大嫌い、第一あの顔つきが嫌い」とすら書いているぐらい)、あまり気乗りがしなかったものだが、読んでみ るとなかなか楽しめた。

この『永井荷風の生涯』は昭和 47年に出版された本で、小門勝二のそれまでの5冊の本(『幻の愛人』、『東京の郷愁』、『ふらんす物語夜話』、『荷風耽蕩』)から著者が適宜抽出し一冊 の本としたもの。小門勝二もいい年になったときのもので、それまでの「スケベ親父」的な表現がずっと少なくなっている。というより非常に素直な荷風伝と なっていて好感すら持てた。

例によって、荷風から実際に聞いたとする言葉が無数に 羅列してあるが、あまり不自然じゃない。実際荷風が言った言葉なのであろうと思う。

たとえば、荷風の『冷笑』は荷風にとっての『にっぽん 物語』であり、『あめりか物語』『ふらんす物語』と併せて三部作としていっしょに出版したいという意向を持っていたとか、とても面白い。

その他『祝盃』で井上唖唖が洋食屋の娘とできてしまう くだりがあるが、あれは実際には荷風本人の話だったと荷風が白状しているとか、笑ってしまった。

興味深かったのは、小門勝二が『あめりか物語』のイデ スこそが『濹東綺譚』のお雪であり、荷風にとってのイデスは生涯を通じての女性だったと主張していること。これは散人もまったく同意見であり、わが意を得 たりであった。

小門勝二は荷風を人間として観察すると同時に、荷風の 作品を本当に好きで読んでいる人だ。「すみだ川」「おかめ笹」「つゆのあとさき」は予告編と前編・後編の関係で一つの流れになっているとか、本当に荷風の 作品が好きで没頭してないとなかなかこういう観察はできない。

小生もふくめて、最近の荷風の読者は、どうも磯田光一 や川本三郎など無数のエライ人達のソフィスティケイティッドな荷風論の影響を無意識に受けているためか、理屈で荷風を理解する人が多い。荷風文学は都市景 観の文学であるとか。その方が何となく知的なのだが、親鸞をプロテスタントに見立てるハイカラ仏教観と同じもので、理屈に過ぎるのかも知れない。もう一度 初心に戻って、荷風の「小説」を理屈抜きに読み直してみたいと思った。


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Posted: Tue - June 15, 2004 at 05:21 PM   Letter from Yochomachi   永井荷風       Comments (8) 

〔再録〕荷風と散歩 June 19, 2003


荷風と散歩


最近中高年の間で流行の東京散 歩というものの元祖は永井荷風だと言われている。明治の終わりにフランスから帰国した荷風がパリ市民の風俗を日本で実践したというのだ。でも荷風の散歩哲 学はディレッタンティズム以上のものがあったように思う。荷風にとって散歩とはなにか、その4つの側面。その過程での発見。荷風が子供時代遊んだ代官 町の土手には当時の榎が残っていた!


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最近東京の街歩きをすると高齢者夫婦が二人連れで歩い て居られるのに頻繁に出くわす。散人もうろつき歩く高齢者だから人のことは言えないのであるが、ガイドブックを手に歩いて居られる人や、カメラでいろんな 写真を撮って居られる人や、はたまた食べ歩きを目的とされて居られるような方とか、とにかく多い。本屋に行けばこの手のガイドブックが山と積んで売られて いる。いまや「東京街歩き」は完全に一つの風俗・趣味として定着した感がある。とてもいいことだと思うが、物の本によると江戸時代にはこんなことはなかっ たらしい。基本的にみんな忙しかったこともあるが、ふらふらと目的もなく歩き回るのは奇異の目で見られたようだ。この散歩というものを日本で最初に意識的 に実行しはじめたのは、衆目の一致するところ、明治40年代の永井荷風である。

永井荷風はアメリカ、フランスでの留学を終えて帰国し たのが明治41年。慶應義塾大学で創刊した雑誌「三田文学」に明治43年から連載した『日和下駄』が日本の散歩文学の元祖とされる。荷風はこの中で都市生 活者としての散歩の美学を確立したと言ってよい。この中で荷風がフランスの散歩の習慣とディレッタンティズムを引用しているところから、荷風がフランスの 習慣を日本に持ち込んだとする見方がある。たしかに荷風は「私の趣味のうちには自ずからまた近世ヂレッタンチズムの影響も混ざっていよう」とフランスでの 散歩の習慣につき長々と紹介している。荷風はフランス人のように「社会百般の現象をば芝居でも見る気になってこれを見物して歩いた」ことに間違いはない。 「深川の唄」には市電の中での実に細かい人間観察がある。荷風は半ばサディスティックにこの観察を楽しんでいた。でもこればかりではない。

荷風にとってそれ以上に重要だったのは「江戸への回 帰」であった。古くからのものを惜しげもなく破壊して薄っぺらな近代を建築していた明治の時代に、荷風は明治政府の悪口を散々言いながら、東京市中の散歩 でわずかながらも残っている古い江戸を発見して驚喜したのであった。これは今どき流行の「路上観察」とは別種のもので、荷風は東京を散歩することで時間空 間を散歩した(タイムトリップを試みた)ともいえる。「(散歩を楽しむためには)是非とも江戸軽文学の素養がなくてはならぬ。一歩を進むれば戯作者気質で なければならぬ」と荷風は断じる。荷風にとっては昔を思い起こさせるものは、普通の人が見れば全くつまらないものであっても、驚喜するほどうれしいもので あったのだ。荷風の学者としての蓄積と博識が、単なる散歩を至福の娯楽にまでに高めしめたのであった。

しかしそればかりでもない。荷風は散歩をしながら考え る人でもあった。ベートーベンが田園を週日歩き回りながら「田園交響曲」の構想を練ったように、荷風も歩きながら作品の構想を練った。また材料の収集を 行った。天下の名作『濹東綺譚』はこうして書かれたし、随筆「放水路」では荒川沿いを歩きながら人生の荒漠をしみじみと哲学する荷風の姿が見える。荷風の 思索は散歩をしながら過去に将来にと無限に広がっていったのである。

加えて最後に、荷風にとっての散歩は「探検」であった ことにも触れなくてはならない。荷風は子供時代から見も知らない道を探検するのが好きだった。それは『日和下駄』にも書かれているが、その路地を曲がれば 何があるのか知りたい、この道はどこに通じているのかを知りたいという、とても子供らしい好奇心である。荷風はこの子供らしい好奇心(冒険心)を最後まで 失わなかった。晩年に書いた「葛飾土産」は「この川はどこに通じるのだろうか」という荷風の好奇心がテーマだ。とても詩情にあふれるいい作品だと思う。荷 風は最後まで子供の心を失わなかった人でもある。

このようにいろいろの要素を併せ持つ荷風の散歩はまさ に「散歩の総合芸術」と言えるかも知れない。

最近『日和下駄』で荷風が子供時代に学校からの帰り道 に遊んだという記述の中に出てくる代官町の榎が現在でもまだ残っているのか急に知りたくなり、代官町に行ってみた。当時の近衛師団は現在国立近代美術館の 工芸館となっている。その向かいあたりに、まさに荷風の記述通りの場所に榎が残っていた。平成の現代にもまだ荷風を偲ぶ風景が残っていたことに、私は驚喜 した。


代官町の榎(2003.3.16撮影)

Posted: Thu - June 19, 2003 at 05:41 PM   Letter from Yochomachi   永井荷風       Comments (3) 

〔再録〕ニュースグループ(fj.books) における楽しい談話  (荷風について、浅草について、岡山について etc.etc)

20024.4
Re: ふらんす物語
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投稿者(From) 余丁町散人
件名(Subject) Re: ふらんす物語
グループ(Newsgroups) fj.books
投稿日(Date) Tue, 20 Nov 2001 11:15:01 +0900
記事ID(Message-ID)
ようこそ!naoyukiさん!
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 Wataru Mizutani at mizutani@jrcat.or.jp wrote on 2001.11.18 10:19 AM:
>
>> 荷風は『フランス物語』を読んで感傷的すぎて「ひとり旅」を除けば
>> うんざりだったのすが、
『すらんす物語』の話が出たので、ひとつだけ。
ひとつだけといいましたが、もうひとつふたつ。
田辺聖子は荷風が大嫌いで、荷風の文章の中での女性蔑視(?)の言葉には「驚倒」
すると書いているのですが、彼女はそれでも『ふらんす物語』のなかの「祭りの夜が
たり」は楽しかったといっています。南仏のアビニオンで旅行者が女にスッテンテン
にされるお話ですが「恐ろしいのは南国の女だ」と荷風はすっかり恐れ入っています。
この辺が彼女のフェミニストとしての復讐心を満足させたようです。
「ひとり旅」は少々理屈っぽいところもありますが良いですね。最後に伯爵が「宮坂
のような変わった男、思想の病人が出てきたのは、すなわち日本の社会が進歩した複
雑になった証拠ぢゃないか。私は喜ばしいことだと思ふ」といってお終いになります
が、現在の日本はどうなんでしょうね。まだまだ「変人」の数が少ないようにも見え
ますが・・・。
--
余丁町散人 naoyuki_hashimoto@mac.com

〔再録〕fj.books における楽しいお話。荷風の小説『来訪者』について、随筆『日和下駄』 についてなどなど

2002.4.5
fj.books における楽しいお話。荷風の小説『来訪者』について、随筆『日和下駄』
についてなどなど。新たな発見がいくつもありました。
永井荷風
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投稿者(From) 余丁町散人
件名(Subject) 永井荷風
グループ(Newsgroups) fj.books
投稿日(Date) Sat, 29 Sep 2001 23:03:54 +0900
記事ID(Message-ID)
所属(Organization) Tokyo Metallic Communications Corp. -----------------------------------------------------------------------
<japan.life.seniorに書いたものだけど、こちらの方が適当なようなので>
吾輩が隠棲する余丁町というところは、新宿の街外れにしては開発が遅れた、やや雑
然とした街で、別段とり立てて自慢するほどのものはなにもないのですが、敢えてひ
とつだけあげるとすれば、この街にふたりの明治の文人が住んだことでしょうか。坪
内逍遙と永井荷風がそうです。
このうち坪内逍遙宅跡についてはすっと前から東京都教育委員会による看板表示があ
るのですが、荷風については長らく無視されており、その旧居跡を示す表示は余丁町
のどこにもありませんでした。ところが先週ようやく「永井荷風旧居跡」との立て札
が余丁町通りに建てられたのです。逍遙に遅れること実に十数年。でも熱狂的「荷風
ファン」を自認する吾輩にとってはまことに喜ばしいことで皆様にご報告したいと思
います。(教育委員会のえらい人は荷風なんて嫌いだったのでしょうね。「教育的で
はない」ということかな)
荷風が好きな人は、ほとんど例外なく年輩者。しかも男性と言われています。吾輩も
それを信じていたのですが、この前荷風について詳しい川本三郎の講演を聴きに行っ
たとき、聴衆に若い女性が結構多かったのには驚きました。最近荷風を見直す傾向が
顕著になっていますが、年輩者ばかりでなく若い女性にも理解されるようになってい
るらしい。まさに「後生畏るべし」ですね。(もっとも、日本近代文学の三本の柱は、
鴎外、漱石、それに「荷風」であると喝破した赤瀬雅子という比較文学の先生は女性
です。何事にも例外はあります)
でも、若い女性に理解者が広がったとしてもシニア世代にとっての荷風の魅力が減る
ものではありません。今度岩波から荷風の日記『断腸亭日乗』が改めて発刊されるの
も隠然たるファンが多いことを物語っています。ともあれ、徒然なるままに荷風散人
の文章にひねもす陶然と酔いしれるのは、吾輩の至福の暇つぶしであり、生活そのも
のとなっているのです。
すこし荷風について話しませんか。
--
余丁町散人 naoyuki_hashimoto@mac.com

〔再録〕荷風と山鳩

2003.1.7


荷風と山鳩

寒い日が続いたかと思うと、日曜日の午後、キジバト(ヤマバト)が一羽余丁町のわが家の庭にやってきました。『断腸亭日乗』を調べるとほぼ同じ時期に荷風も山鳩を観察していることが分かりました。キジバトとは俗に山鳩とも言いますが、学名は Streptopelia orientalis といい、体長約33センチ、体は葡萄色を帯びた灰褐色で、雨覆は黒くて赤褐色と灰色の羽縁があり、頸側には黒と青灰色のうろこ状の斑が在る鳩です(日本野鳥の会)。普通は山地に住んでおりますが厳寒の頃にはあまりの寒さのためか町中にやってきます。余丁町は東京23区でも最も高い位置にあり(戸山公園の箱根山が23区で海抜が一番高いのですが、余丁町もほぼ同じ高さにあります)山鳩も飛んで來やすいのでしょう。荷風はこの山鳩に特別の思い入れがあったようで、『日乗』には大正7年1月7日と昭和11年1月22日の二回に渡り記述があります。いずれの記述も、飛んできた山鳩に自分の寂しい生涯を見立てたり、過ぎ去った過去への郷愁を語るものとなっています。母恒の言葉が具体的に引用されているのは此のくだりだけではないでしょうか。荷風は更に、山鳩を見ることで、唖唖子、鴎外に就いても思い起こしています。厳寒の頃、山から一羽だけでやって来て落ち葉を踏み歩くキジバトに、散人も昔の日本の冬は寒くて寂しかったことを思い出しました。本邦最初の「バード・ウォッチャー」荷風の一側面をご紹介したいと思います。

<断腸亭日乗より引用>

大正7年正月7日。山鳥飛び來たりて庭を歩む。毎年厳冬の頃に至るや山鳩必只一羽わが家の庭に来るなり。いつの頃より来り始めしにや。仏蘭西より帰り來たりし年の冬われは始めてわが母上の、今日はかの山鳩一羽來りたればやがて雪になるべしかの山鳩来るに日には毎年必雪降り出すなりと語らるるを聞きしことあり。されば十年に近き月日を経たり。毎年來たりてとまるべき樹も大方定まりたり。三年前入江子爵に売却せし門内の地所いと広かりし頃には椋の大木にとまりて人無き折を窺ひ地上に下り來たりて餌をあさりぬ。その後は今の入江家との地境になりし檜の植え込み深き間にひそみ庭に下り來たりて散り敷く落ち葉を踏み歩むなり。此の鳩そもそもいづこより飛び来れるや。果たして十年前の鳩なるや。或いは其の形のみ同じくして異なれるものなるや知るよしもなし。されどわれはこの鳥の来るを見れば、殊更にさびしき今の身の上、訳もなく唯なつかしき心地して、ある時は障子細目に引きあけ飽かず打ち眺めることもあり。ある時は暮れ方の寒き庭に下り立ちて米粒麺麭の屑など投げ与ふることあれど決して人に馴れず、わが姿を見るや忽ち羽音鋭く飛び去るなり。世の常の鳩には似ず其の性偏屈にて群れに離れ孤立することを好むものと覚えし。何ぞ我が生涯に似たるの甚だしきや。

昭和11年1月22日。山鳩一羽西向きの窓に茂りし椎の木立の殊に小暗き葉かげを求め、朝の中より昼過ぎるころまで動かず作りしものの如く枝にとまりたり。こは今日初めて心づきしにはあらず、いつの頃よりとも知らず厳寒の空曇りし日に限り折節見るところなり。大久保余丁町の庭にも年々寒さはげしき日一羽の鳩の來りしことはたしか二十年前の日記にしるし置きたり。二十年前のわが身はまことに寂しきものなりけり。されど其のころには鴎外先生も未簀を易へたまはず、日々来往する友には庭後??子あり、雑誌つくりて文字を弄ぶたのしみも猶失われざりき。二十年後の今日は時勢も変わり語るべき友もなくなり老いと病の日々身に迫るをおぼゆるのみ。この日薄く晴れて後空くもりしが夜に至りて星影冴えたり。銀座三越に行き食料品を購ひ茶店久辺留に立ち寄ればいつもの諸氏在り。諧語に時の移るを忘れ例の如く夜半家にかへる。

<引用終わり>











20年近くも経っているのに、むかし日記に書いたことを覚えているのは、相当の思い入れです。荷風が好きな動物はほかにどんなものがあったのか、それぞれの動物にどんな思い入れを託していたのか、調べてみると面白いかも。

〔再録〕荷風はどうして時代が読めたのか

2002.12.29


荷風はどうして時代が読めたのか。

荷風を読んでいて感心するのは、文学的才能もさることながら、荷風は実に時代が読めた人だったと言うことです。明治、大正、昭和のそれぞれの時代で、実に洞察力のある情勢判断と予測をしており、今から見るとそのほとんどが正しかったことが分かります。政治経済の勉強なぞしたことがなく、新聞すら満足に読まなかった荷風がどうしてこのような的確な情勢判断をすることが出来たのか、今回はこれを考えてみたいと思います。

もちろん荷風は西洋かぶれで日本の軍人が嫌いでしたから、悪口ばっかり言って、それが結果的に的中したとも言えないことはないでしょうが、それだけではない。例えば、昭和6年11月10日の『日乗』には「つらつら思うに、今日わが国政党政治の腐敗を一掃し、社会の気運を新たにするものは、けだし武断政治を措きて他道なし」と政党政治の問題を正確に捉えていますし(軍人の方がまだましといっているのは「こんなのだったら猫にやらせた方がまし」と言うぐらいの誇張的表現でしょう)、昭和11年2月14日には「日本現代の禍根は政党政治の腐敗と軍人の過激思想と国民の自覚なき事の三事なり」と、軍人だけの問題ではなく日本人全体の問題として捉えているのは非常に的確と言わねばなりません。海外情勢にしても、西欧諸国のことを手放しに礼讃したのでもなく、昭和7年10月3日には、「英国は世界到るところに領地を有す。しかるにわが国が満州占領の野心あることを喜ばずは奇怪の至りと言うべきなり」と英国の批判をしたかと思うと「然ると雖も日本人の為すところも亦正しからず」と続けて、当時の世界情勢を実に的確に要約しているのです。経済問題についても昭和18年12月31日に「戦争終局を告ぐるに至る時は、政治は今より猶甚だしく横暴残忍となるべし。必ず、債券を焼き私有財産の取り上げをなさでは止まざるべし」と、戦後の預金封鎖、財産税、超インフレによる資産没収を正確に予測しています。荷風がやった土地株式の売買なども、今から見ても全て絶妙なタイミングでやっており、散人などは足下にも及びません。

何故こんなに先が見通せたのか、理由をいろいろ考えていたのですが、結局、荷風が時代を読めたのはいわゆる「傍目(おかめ)八目」という奴ではないかと思い始めました。「傍目八目」とは将棋を横で見ている見物人は頭に血が上っている当人達より冷静なので八目先が読めるということわざですが、荷風は「当事者」でなかったからこそ情勢が読めたと言うことだと思います。荷風が当時の日本社会につくづく厭気を覚え「江戸戯作者の程度まで身を引き下げよう」と決心したというくだりは「花火」に書いてありますが、この時点(明治44年)で荷風は実社会と距離を置くようになったと言えます。しかし世捨て人のように完全に現世から身を引いたわけではなく、現に東京で世俗的な生活を続ける。この社会との「適当な距離感」こそが荷風をしてたぐいまれなる時代の予言者としたといえるのです。

これは荷風のコスモポリタン的な性格と密接に関係しているようにも思います。本当に不思議なのですが、明治に西欧に渡った森鴎外、夏目漱石、永井荷風を較べてみますと荷風のコスモポリタン的な性格が鮮明になってきます。荷風は西欧に於いて、日本留学生を例外なしに悩ませた「日本人であるということのコンプレックス」を全く感じていなかったようなのです。これは実に不思議です。豪快な森鴎外ですら、ドイツで「鼻くそをほじるのは日本人だけだ」と言われて、ドイツ文献を一生懸命に調べ遂にドイツ人も鼻くそをほじるという記述を見つけて鬼の首を取ったように喜ぶということをしました。これはやはりコンプレックスです。漱石はロンドンの町で自分の姿を鏡に見て言うに言われない劣等感にさいなまれノイローゼになったことは有名な話です。二人とも日本人であると言うことをとても意識して生活をしていた。自分と日本を同一に考えている。当事者の考え方です。ところが荷風についてはそういう話が一切なかった。日本人駐在員の悪口は言うのですが、自分と明らかに距離を置いている。

荷風にはコンプレックスというものがもともと薄かったことがこういう事に繋がったのだろうと思います。ことに西欧コンプレックスは、日本人の場合、過激なナショナリズムに繋がりやすいだけに、荷風がそれを持っていなかったのはとても幸せだったと思います。コンプレックスを持たないことが、荷風をナショナリズムから遠ざけ、コスモポリタンとし、距離を置いた冷静な情勢判断を可能にさせたと言えるでしょう。

このコスモポリタン的な性格は、荷風の場合、小さな弱い存在に対する愛情にも繋がっていると思います。フランスからの帰路、イスタンブールでトルコの旗を見て、同情と感動を覚えるくだりがありますが、あれは弱者への愛情でしょう。捕らえられた台湾土人に対する同情や、韓国、中国に対する惜しみない愛情もそうです。荷風にとっては国籍は関係なかった。『ぼく東綺譚』などの一連の小説でひかげの女たちへの愛おしみも、自分と同じ集団に属していない人たちへの愛情であり、同じコスモポリタン的なものが感じられます。ナショナリスティックな民族主義者達はどうしても自分と同じでないものを排除し憎むという傾向があります。集団に属する組織人もそうです。それらの邪悪な感情は、もとはといえばコンプレックスから來ているように思えてなりません。荷風は、現代日本人の生き方考え方においても、教えてくれるところが多い作家だと感じています。








〔再録〕持田叙子「おうちを、楽しく」(三田文学)……目からウロコの荷風論


Letter from Yochomachi > 永井荷風 >

余丁町散人(橋本尚幸)の隠居小屋 - Blog


持田叙子「おうちを、楽しく」(三田文学)……目からウロコの荷風論


『朝寝の荷風』で荷風ファンを 驚倒させた持田叙子がまたまた三塁打!「三田文学」冬季号に掲載されている彼女の荷風論は、読むべし!

意訳的抜粋:
  1. 永井荷風は、まず歩く人というイメージだが、持田叙子にとっては、家の中の人、というイメージ。欄干にもたれて黄昏 時にぼんやり外を眺めるオトコ。ひたすらお昼寝をするオトコの姿も書いている。だいたいこんな時間に男の人が家にいるのは珍しいのに。
  2. ある意味マイホーム主義の人としての荷風を浮き彫りにしたい。
  3. 荷風のエッセイはよく読むと、一種の住宅論であるものも多い。
  4. 荷風文学の一つの大切なテーマは、追憶。彼の追憶の多くが、家の中の無為のたたずまいの中から紡ぎ出されている。
  5. 荷風文学の基盤は<家>にある。
  6. 荷風の批判精神も、家の中という<ウチ>から、社会という<ソト>へと発信される。
  7. 荷風の家事は、義務とか仕事ではなく、楽しみ。ここが幸田露伴と違うところ。
  8. 荷風にとっての住まいの原点は、小石川の生家・余丁町の家を核とする。しかし洋風建築への関心はかなり高く、結局は シンプルな英国風の洋館(偏奇館)をわが家と定める。これは偶然ではない。偏奇館は『あめりか物語』の荷風の永遠の少女・ロザリンが住んでいたスタット ン・アイランドの田舎風の家なのだ!
  9. ロザリンの住む米国ニューイングランド経由英国につながる。荷風の住宅思想には、フランスよりアメリカ、さらに英国 の影響が絶大なのだ!
  10. 荷風は英国の近代装飾美術の改革者で社会運動家であったウイリアム・モリスにつながる。モリスを最初に日本に紹介し たのは、工芸家の富本健吉だが、ほぼ同じ時期的に荷風が随筆「妾宅」の中で、その社会主義的な思想面まで詳しく触れている。明らかに何らかのモリス体験が アメリカ留学中にあった。絶対荷風はアメリカでモリスを原文で読んでいた。
  11. 荷風とモリスには数々の共通点が見られる(数々と列挙)。「妾宅」ばかりでなくあの有名な幸徳秋水の囚人馬車を目撃 することで自分の芸術のスタンスを転校させたという随筆「花火」もそういう背景で読まねばならない。モリスは幸徳秋水達の運動にも影響を与えたのだ(実 証)。
  12. 荷風は最後までイギリスの田園風の粗末な家である偏奇館を一番愛した。今日からすぐにでも私たちが真似できそうなス ウィート・ホームであることが魅力的。始めてみますか……。

荷風にはフランスの影響よりも、アメリカの影響が強く見られるというの は、知られていることだが、英国のウイリアム・モリスとの関係を指摘したのは持田叙子が最初だろう。荷風の江戸趣味もここから説明できる。また荷風の「永 遠の少女」がロザリンであったことは、散人も直感的に確信している。その通りだと思う。この荷風の精神的支柱であった<家>偏奇館が東京大空襲で燃え尽き たことが、荷風の燃え尽きにつながったとする川本三郎の説も、持田叙子を読むことで補強される。

とにかくこの人の文章は面白いから、おすすめ。

参考:

ウイリアム・モリス

Posted: Sun - February 26, 2006 at 06:42 PM   Letter from Yochomachi   永井荷風      Comments (1)  

〔再録〕荷風と高見順


Kafu School News No18 荷風と高見順

今日8月17日は高見順が死ん だ日です(1965.8.17)。高見順は『如何なる星の下に』『いやな感じ』などで知られるエライ小説家ですが、永井荷風の従兄弟でもありました。なの に二人はまともに口も聞かなかったし、日記でお互いの悪口を散々書きあっています。どういう経緯なのか。とかく人のケンカは面白いので、野次馬根性を出し てみましょう。

まず高見順のご紹介をします。 『ニッポニカ』から抜粋すると次の様な人物。

「福井県の生まれ。明治40年当時の福井県知事阪本釤 之介(しんのすけ)の庶子として生まれる。母とともに上京し、府立一中、旧制一高を経て、東京帝国大学英文科に進む。東大では左翼芸術同盟を結成し、プロ レタリア文学。その後検挙され転向するが、妻に裏切られ精神的苦悩が重なる。戦争が長期化する中で逃れるように浅草生活に入り、浅草情緒を伝える作品を書 く。昭和40年8月17日癌で倒れる。日本ペンクラブや日本近代文学館の創設に尽力した」

この福井県知事の阪本釤之介は荷風のお父さん久一郎の 実弟です。荷風にとっては叔父に当たる。荷風が小さい時に小石川金富町の屋敷に同居していたこともある。もっとも高見順と荷風は30歳近く年齢が離れてい て、荷風はその存在すら知らなかったようです。ケンカになるような状況じゃないのですが、いったいどうしたのでしょうか。

荷風が最初に高見順を知るのは昭和11年8月27日の こと。『日乗』によるとこうなってます。

「東京茶房に小憩す。偶然この喫茶店の女給石田某とよ べる女の旧情人高見沢某なる人は余が叔父阪本三頻翁が庶子なる由を知りぬ。・・・文学者なりと云ふ。余は大正三年以後親類と交わらずを以て今日この時まで 何事をも知らざりしなり。」(註、名前を間違って書いてます)

続いて9月5日には次のような記述が:

「八月末の日記にしるせし高見氏のことにつき、その後 また聞くところあり。氏は近年執筆せし短編小説を集め起承転々と題し、今年7月改造社より単行本としを公にしたり。書中私生児と題する一小編は氏の出生実 歴を述べたるものにて、実父阪本翁一家の秘密はこれが為悉く余に暴露せられたりと云ふ。気の毒のことなり。阪本翁は余が父の実弟にて・・・儒教を奉じて好 んで国家教育のことを説く。されど閨門治まらず遂に私生児を挙ぐるにいたりしも恬として恥じるところなく、貴族院の議場にて常に仁義道徳を説く。余は生来 潔癖ありて、斯くの如き表裏ある生活を好まざるを以て三四十年来叔姪の礼をなさず、・・・・偶然高見氏のことを聞き、叔父の迷惑を思ひ、痛快の念禁ずべか らずなり。」

この叔父の阪本氏を題材にして荷風は「新任知事」とい う風刺小説を書き、以来荷風と阪本家は絶交となっていました。自分のお父さんに較べて、妙に要領がよく立身出世主義の叔父が気にくわなかったのでしょう が、「新任知事」は誰が読んでも阪本氏のことだと分かる。阪本氏も、最初は甥から筆誅され、次に自分の子供から悪く描かれては、実にお気の毒です。でも荷 風にとっては、敵の敵は味方であるはずですから、高見順は味方の筈なのですが、どうしてケンカしたのでしょう。

同じ年の10月16日、荷風は高見順より献本を受け 取っています。次の記述があります:

「高見順其著短編小説集女体を贈らる。晴れて風なけれ ば午後また落葉を焚く・・・」

一見何でもないようですが、後述する高見順の日記で分 かるように、荷風はこの献本に腹を立てています。荷風の高見順への印象は相当悪かったようで、以後日記で悪口が続きます。

「昭和15年2月16日。・・・谷中氏に逢ふ。同氏の はなしにこの日午後文士高見順踊子二三人を伴ひオペラ館客席に来れるを見たり。原稿用紙を風呂敷にも包まず手に持ち芝居を見ながらその原稿を訂正する態度 実に驚き入りたりと云ふ。・・・・(三上於と吉の愚談と)好一対の愚談なり」

「6月16日。・・・文士高見順という面識なき人、往 復葉書にてその作れる戯曲を上演すべし。会費を出して來たり見よというが如きことを申し来たれり。自家吹聴の陋実に厭うべし」

「9月13日。・・・オペラ館楽屋裏に至る。文士高見 順□楽屋に來たり余に交際を求めむとすという。迷惑甚だし。」

さんざんですが、理屈抜きに気に入らなかったのでしょ うね。でも荷風もこの日記を生前に刊行するのは、相当嫌味です。一方の当事者である高見順はどうかといえば、荷風が死んでから4年もたった時の日記でさん ざん荷風の悪口を書いて憂さを晴らしている。

『高見順日記』(昭和38年2月16日)では、 「(『断腸亭日乗』によれば)オペラ館の客席で私が原稿を書いたという。待合いで原稿を書いた三上オト吉と好一対だという。私はそんなキザな真似をした覚 えはない」

さらに続けて、

「荷風の私あての手紙を妻が押入から探し出してきて、 もってきたが、実に無礼な手紙だ。実にいやな奴だ。『女体』(昭和11年刊)を贈ったことに対する礼状だが、たとえば『御恵贈に与り御芳志難有存候』とあ る、その『御芳志』の『御』をわざわざ行の最後に書いてある。無礼極まりない」

真実はよくわかりませんが、どうも荷風の方が意地悪 だったと思います。嫌いな叔父の私生児ということに対する生理的な反発だったのでしょう。

でも手紙の「行かえ」の位置で嫌味を発信したり、また 受け取った方がそれに反応するとか、実に細かいというか、ここまで来ると嫌味も高等テクニックです。(ワープロだったらどうするのだろう?)

やっぱり二人は似たもの同士なのです。血は争えないの でしょうね。

Posted: Sun - August 17, 2003 at 06:26 AM   Letter from Yochomachi   永井荷風       Comments (2)  

〔再録〕『珊瑚集』ー原文対照と私註ー 憂悶 シャアル・ボオドレヱル



『珊瑚集』ー原文対照と私註ー

永井荷風の翻訳詩集『珊瑚集』の文章と原文を対照表示させてみました。翻訳に当たっての荷風のひらめきと工夫がより分かり易くなるように思えます。二三の 私註と感想も書き加えてみました。
       シャルル・ボードレール
  原文 
                      
荷風訳
Spleen Charles Baudelaire


Quand le ciel bas et lourd pèse comme un couvercle
Sur l'esprit gémisssant en proie aux longs ennuis,
Et que de l'horizon embrassant tout le cercle
Il nous verse un jour noir plus triste que les nuits ;


Quand la terre est changée en un cachot humide,
Où l'Espérance, comme une chauve-souris,
S'en va battant les murs de son aile timide
Et se cognat la tête à des plafonds pourrris ;


Quand la pluie étalant ses immenses traînées
D'une vaste prison imite les barreaux,
Et qu'un peuple muet d'inflâmes araignées
Vient tendreses filets au fond de nos cerveaux,


Des cloches tot à coup sautent avec furie
Et lancent vers le ciel un affreux hurlement,
Aisi que des esprits errants et sans patrie
qui se mettent à geindre opiniâtrément,


- Et de  longs corbillards, sans tambours ni musique,
Défilent lentment dans mon àme ; Espoir,
Vaicu, pleure, et l'Angoisse atroce, despotique,
Sur mon crâne incliné plante son drapeau noir.

(Les Fleurs du Mal)

憂悶 シャアル・ボオドレヱル


大空は重く垂れ下がりて、物覆ふ蓋の如く

久しくもいわれなき憂悶に嘆くわが胸を押へ、
夜より悲しく暗き日の光、
四方閉す空より落つれば、
この世はさながらに土の牢屋(ひとや)か、
蟲喰みの床板に頭打ち叩き、
鈍き翼に壁を撫で、
蝙蝠の如く「希望(のぞみ)」は飛び去る。
限りなく引續く雨の糸は
ひろき獄屋(ひとや)の鐵棒に異らず、
沈黙のいまわしき蜘蛛の一群、
來りてわが腦髓に網をかく。
かかる時なり。寺々の鐘突如としておびえ立ち、
住家なく彷徨ひ歩く亡魂(なきたま)の、
固執(しうね)くも嘆き叫ぶごと
大空に向かひて傷しき聲を上ぐれば、
送りる太鼓も楽もなき柩の車は
吾が心の中をねり行きて、
欺かれし「希望」は泣き暴悪の「苦悩」は
うなだれるる我が頭の上に黒き頭の上に黒き旗を立つるかな。


『珊瑚集』の二番目の詩です。

陰鬱な詩ですね。低く雲が垂れこみ、暗くて寒い冬のパリならではのもの凄さがあります。でも荷風はこのような陰鬱な冬を経験しなかった。アメリカからフラ ンスに着いたのは7月で、すぐリヨンに向かいます。リヨンでは冬を越しましたが、比較的フランス南部に位置する町ですから、冬はパリほど陰鬱ではありませ ん。リヨンからまたパリに來来るのは翌年の3月28日。パリを去るのが5月28日です。荷風はとてもいい季候のパリしか見ていないのです。
何故荷風はこの陰惨な詩に感動したのでしょう。思うに、荷風は実際このような陰鬱な気持ちでフランスに滞在したのではないかと思 います。心弾ませて念願のフランス行きを果たしたものの、アメリカに残してきたイデスの事を思い、罪の意識を感じながら悶々とした生活を送ったと考えられ ないでしょうか。荷風のイデスに対する気持ちは、ほとんど彼の一生につきまとっていたのではないでしょうか。その後の日本での派手な女性関係は所詮イデス との関係を超える物ではなかった。それが一点。もう一つは、日本への帰国時期がどんどん迫ってくることです。日本に帰らなければならない、日本の制度に組 み込まれなければならないと言う事実が、一つの強迫観念となって心に重くたれ込めていたのだと思います。

荷風の『ふらんす物語』が多くの素晴らしい描写はあるものの、全般的に鬱の気分が強く、『あめりか物語』ほどの精彩を欠くのは不思議な事実です。あれほど フランスに憧れていたのですから、当然『ふらんす物語』の方が生き生きして然るべきところなのに、実際は反対になっている。荷風をめぐる女性関係の分析 は、往々にしてこのイデスを軽視しているように思います。なんと言ってもイデスは、荷風にとってはじめての「長い期間にわたって」一緒に生活した相手なの ですから。少年時の恋は別にして荷風にとってはじめての「大人の恋」だった。荷風は一生忘れなかったと思います。
余丁町散人 (2002.11.17)

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訳詩:『珊瑚集』籾山書店(大正二年版の復刻)
原詩:『荷風全集第九巻付録』岩波書店(1993年)

〔再録〕『珊瑚集』私註 死のよろこび シャアル・ボオドレヱル


『珊瑚集』ー原文対照と私註ー

永井荷風の翻訳詩集『珊瑚集』の文章と原文を対照表示させてみました。翻訳に当たっての荷風のひらめきと工夫がより分かり易くなるように思えます。二三の 私註と感想も書き加えてみました。
シャルル・ボードレール
  原文 
                      
荷風訳
Le Mort joyeux Charles Baudelaire
Dans une terre grasse et plein d'escargots
Je veux creuser moi-même un fosse profonde,
Où je puisse â loisir étaler mes vieux os
Et dormir dans l'oubli comme un requin dans l'onde.


Je hais les testaments et je hais les tombeaux ;
Plutôt que d'implorer une larme du monde,
Vivant, j'aimerais mieux inviter les corbeaux
A saigner tous les bouts de ma carcasse immonde.


O vers ! noirs compagnons sans oreille et sans yeux,
Yoyez venir à vous un mort libre et joyeux ;
Philosophes viveurs, fils de la pourriture,


A travers ma ruine allez donc sans remords,
Et dites-moi s'il est encor quelque torture
Pour ce vieux corps sans âme et mort parmi les morts !
(Les Fleurs du Mal)
死のよろこび シャアル・ボオドレヱル
蝸牛葡ひまはる粘りて湿りし土の上に
底いと深き穴をうがたん。泰然として、
われ其処に老いさらぼひし骨を横へ、
水底に鱶の沈む如忘却の淵に眠るべう。

われ遺書を厭み、墳墓をにくむ。
死して徒に人の涙を請はんより、
生きながらにして吾寧ろ鴉をまねぎ、
汚れたる脊髄の端々をついばましめん。

おお蛆虫よ。眼なく耳なき暗黒の友、
君が為に腐敗の子、放蕩の哲学者、
よろこべる無頼の死人は来る。

わが亡骸にためらふ事なく食入りて
死の中に死し、魂失せし古びし肉に、
蛆虫よわれに問へ。猶も悩みのありやなしやと。

『珊瑚集』の巻頭を飾る詩です。これを最初に持ってきたのは荷風として考えるところがあったと思います。当然自分に引き比べていた。「腐敗の子、放蕩の哲 学者、よろこべる無頼」。若き荷風はこれこそ自分のことだと感じたのは自然です。

"Je veux creuser moi-même un fosse profonde" の訳の後に、行を変えず荷風は「泰然として」という言葉を付け加えていますが、それは次の行の「横へ」にかかる言葉。語数の関係でしょうね。そのほか「腐 敗の子、放蕩の哲学者、よろこべる無頼の死人」と言葉の並び方が原文とは逆になっています。これは動詞の前に「無頼の死人」を持ってくるためなんでしょう が、芸が細かい。

最後の行。蛆虫よ「われに問へ」と訳してますが、どうなんでしょう? (まだ死体の中に苦しみが残っているかどうか)「われに言へ(教えろ)」だと思うん だけれど、何か理由があるのかな。よく分からない。

飯島耕一はこの荷風訳を評して「翻訳技術者の手になる訳ではなく、この通り実行した人の手になる訳」としています。「生きながらにして吾寧ろ鴉をまねき」 という恐ろしい言葉を荷風はそのまま実行しました。「陋巷に窮死する」というのは荷風の若いときからの確信でもあったように思います。

つくづく思うんですけど文語はいいですね。特にボードレールの詩なんかは文語で訳すと大迫力です。口語訳ではどうも様にならないような気がします。聖書も 同じですね。昔の文語訳の方がよほど格調高かったです。

余丁町散人 (2002.11.14)

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訳詩:『珊瑚集』籾山書店(大正二年版の復刻)
原詩:『荷風全集第九巻付録』岩波書店(1993年)

〔再録〕なぜいま荷風なのか? 高齢化社会と荷風


「荷風塾」学校通信
School News
2002.2.13創刊号      世話人/発行人 余丁町散人
「荷風塾」を開きました。
       余丁町散人
われらの荷風先生がお亡くなりになられてから早くも40年以上が経過しました。亡くなられたのは昭和34年4月29日。東京の東、市川の侘びしい住まいで、一人で血を吐いて死んでいるのを、朝仕事に来た家政婦のお婆さんが発見したのでした。

最後まで偏屈に一人暮らしを続け、胃潰瘍であったにかかわらず病院にも行かず、亡くなるその日にも近所の安食堂で「甘くてべちゃべちゃする」カツ丼を平らげられ、その夜の大往生でありました。先生の逝かれた小さな6畳間には家具らしい家具もなく、散らかり放題で足の踏み場もなく、駆けつけた人たちの目をひそめさせたと言うことです。

なんという壮絶で、格好のよい死に方だったのでしょう。最後までご自分のライフスタイルを守られ、周辺から疎まれながら逝かれたのは、さすが憎まれっ子荷風と賞賛の念を禁じ得ません。

われら老人は、所詮世間の嫌われ者であります。同じことなら先生のように格好良く生きて、壮絶に死ぬことを目指して、みんなでお勉強し、修行したいと思います。よって「荷風塾」というものを作ったものです。

塾長はもちろん荷風大先生。場所はこのホームページについている掲示板。先生を肴にしていろいろおしゃべりをしませんか。そのおしゃべりの材料をこの「荷風塾 学校通信」で提供していきたいと考えます。

宜しくご贔屓の程お願いいたします。

なぜいま荷風なのか?
       高齢化社会と荷風川本三郎が荷風の話をするというので聴きに行ったことがあります。いやすごかった。川本三郎の話もさることながら、聴衆の平均年齢。ほとんどが散人よりももっと爺さんだったのです。荷風ファンは爺さんが多いと改めて実感いたしました。そういえば神田の古書店街では一番高く売られている古本は荷風の本だと聞いたことがあります。荷風が好きなのは高齢者。日本の資産は高齢者層に偏在している。かれらは余り消費はしないので経済評論家と称する人たちからは困りものだといわれているが、好きなものには金に糸目を付けない。だから荷風の本が高くなる、ということのようです。

荷風が若いころから既に自分を老人に見立てる傾向がありました。老人を否定的に見る実利第一主義の時代の中で、荷風はいわば老人の美学を追究したともいえるでしょう。老いてますます不良ぶりを発揮したのもうれしいことです。荷風は我ら老人たちの希望の星と言えるのではないでしょうか。日本の高齢化社会はいま始まろうとしています。よって自ずと荷風ファンも趨勢的に増え続けざるを得ません。まことに喜ばしい限りであります。

いま急速に高齢化が進んでいる中、テレビなんかで高齢者の生きがいはどう見つけるかとのテーマで番組が組まれたりなんかしております。でも散人に言わせれば馬鹿なことであります。もう何十年も前に永井荷風先生が答えを与えてくれているではありませんか。みんなが荷風みたいに不良老人になれば老後の人生もスリリングでまた楽しくなるのです。簡単なことであります。

でも荷風先生のライフスタイルは、昨日今日の付け焼き刃的な修行ではとても真似できるものではありません。何せ年期が入った不良生活です。その意味で、いまの若い世代も今のうちから荷風先生の生き方を勉強し、修行を積み重ねる必要があります。小さいときから始めておかないととても「大荷風」みたいには成れません。だからお若い方もぜひご一緒にわいわいやりましょう。
荷風旧居(断腸亭)跡
     新宿区余丁町
散人が住んでいる新宿余丁町には荷風が住んでいた断腸亭跡があります。新宿区の史跡に指定されたとかで、ようやく最近になり看板が立てられました。左の写真です。

都営地下鉄新宿線の曙橋駅から台町坂を抜弁天に向けて登り切ったあたりです。ビオセラ・クリニックという診療所の前に「断腸亭跡」との看板が出ていますが、正確にはここは永井荷風が入江子爵に売り払った土地であり、実際の断腸亭はその裏、つまりいま郵政省の宿舎が建っている地所の後ろあたりとなります

つい最近「メゾン・ド・ピュア」という変な名前の女性専用マンションが、まさに本当の断腸亭跡に建てられ、住まれている若い女性の方々の通勤通学で、一時はうらぶれていたこのあたりも、にわかに華やかになってきました。元祖助平爺を自認する荷風の霊は、さぞや喜んでいることと推察いたします。なによりの供養だと思います。

第一回はこのへんにします。続きをお楽しみに。

(下にいくつかの荷風と余丁町に関するリンクを付けました。「荷風のいた風景」とは松本哉の文章です。なおロゴと写真はクリックすると拡大画像が見られます)
断腸亭日乗(摘録)牛込抜弁天郵便局「荷風のいた風景」

〔再録〕永井荷風と余丁町


「荷風塾」学校通信
School News
2002.2.24No.002
荷風と余丁町
    余丁町散人「荷風塾学校通信」の第二号です。今回のお勉強は荷風と余丁町の関係について。荷風といえば麻布の偏奇館に隠棲する偏屈男とのイメージが先にあり、余丁町はややもすると荷風が放蕩息子だったときに寄宿していた父親の家(来青閣)のあった場所という印象を持って居られる方も多いようで、余丁町の住人としては何とも残念です。そんなことはありません。荷風の一世一代の作品『断腸亭日乗』が余丁町の彼の離れの名前から採られていることからもわかるように、余丁町は荷風にとって非常に重要な意味を持つ場所だったのです。

荷風が余丁町に住みだしたのは明治35年、荷風が23才のときです。それ以来大正7年に39才で転居するまで16年間、途中に留学期間をはさみますが、荷風は余丁町に自分の拠点を置きました。その間に発表した作品は、『野心』『地獄の花』『新任知事』『夢の女』『女優ナナ』『あめりか物語』『ふらんす物語』『狐』『深川の唄』『監獄書の裏』『新帰朝者日記』『すみだ川』『冷笑』『妾宅』『掛取り』『珊瑚集』『日和下駄』『腕くらべ』等です。すごいでしょう。荷風の主要作品のほとんどすべてが余丁町時代に書かれているのです。

それにくらべて偏奇館に移ってからの荷風は余りたくさんは書いて居らず『ぼく東綺たん』『つゆのあとさき』等の名作はありますが、むしろ遊ぶのに忙しかたのか、寡作であったともいえます。

散人は当時の余丁町の江戸時代から連綿として続く山の手風土と、荷風が憧れた西欧文化、さらには江戸下町文化との軋轢が、荷風をして執筆に駆り立てたものがあったような気がしてなりません。その意味で荷風はやっぱり余丁町とは切っても切れない抜き差しならない関係にあると言えるでしょう。

そのへんを詳しく辿っていきたいと思います。

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下に昔の断腸亭があった場所の写真を載せておきます。曙橋から台町坂を登り切った所から余丁町が始まりますが、その最初の辻を右には入ったところ(左手)。女子専用のマンション「メゾン ド ピュア」がその場所ですが、余りじろじろ見ていると痴漢と間違われますからご用心。

荷風は余丁町のどこに住んでいたのか
 本論にはいる前に荷風が実際どこに住んでいたのか、その正確な場所はどこかという点について述べたいと思います。これがどうも正確に伝えられていないような気がするからです。文学散歩の元祖である野田宇太郎もその名著『文学散歩』において「断腸亭のあとは最早捜すにあてどない有様であるが、どうやらこのあたりであったらしい」と現在余丁町の出世稲荷がある場所で道に迷い、見事に断腸亭の位置を間違えています。

さらに、前回の学校通信で述べたように、今般新宿区教育委員会が「史跡断腸亭跡」との看板を余丁町通りに立てましたが、あの場所は荷風が入江子爵に売った地所の一部であり、断腸亭が建てられていた場所ではありません。

また松本哉も『永井荷風の東京空間』では、断腸亭は75番地と78番地にかけてあったとしていますが、必ずしもそうでもないようです(ちなみにこの場所には現在郵政省の宿舎が建てられており、住所表示が旧表示の75番地で書かれています。郵便局の元締めが新郵便住所表示を使わないのはどういうことなのかわかりません)。

散人が余丁町の家に引っ越してきたのは1998年のことですが、このとき生まれたときから余丁町に住んでいたという先の住人からきいたのですが、その方が小さいときには現在の郵政省の宿舎の奥で、その裏の富国生命の青年寮の境のあたりに、断腸亭跡との史跡看板があり余丁町小学校でもそう教えられたとのことでした。つまり正確には郵政省宿舎の裏の78番地と79番地にかけての地所であるわけです。

その意味で近藤富枝先生監修による『永井荷風の愛した東京下町』(日本交通公社)では断腸亭跡として富国生命の寮の写真を掲載しているのは(39頁)まことにさすがであると言わねばなりません。前回に触れましたが、この富国生命の寮は現在取り壊され、そのあとに写真の「メゾン ド ピュア」という女性専用マンションが建ったわけなのです。
変わり行く余丁町と
    変わらない余丁町
もちろん余丁町は荷風が住んでいた頃から大きく変わりました。一番大きな変化は荷風が住んでいたときにはまだあった監獄署が無くなったことでしょう。この監獄は当時の地図をみると現在の富久町から台町にかけての広大なものだったようです。未決囚を収容する市谷監獄と既決囚を収容する東京監獄の二つに分かれていました。幸徳秋水が収容され処刑されたのは市谷監獄の方で、その処刑された場所とされるところにはいま小さな観音様が祭られています(観音ビルという名の建物の隣)。断腸亭からすぐ目と鼻の先の所です。これには荷風も感じるところが少なからずあったようで、有名な「花火」という随筆には、市谷監獄から日比谷の裁判所まで幸徳秋水らを輸送する囚人馬車を荷風が目撃しショックを受け、それを機会に「江戸戯作者の程度までに身を引き下げるしかない」と決意を示す有名なくだりがありますが、これはまんざら荷風のポーズとはいいきれないと思います。

この監獄署の裏に暮らすということが荷風にとって相当大きなトラウマであったようで、「監獄署の裏」という作品では監獄から流れ出る浴場の温暖かい排水で近所の貧しい女たちが腫れ物だらけの赤ん坊をおぶいながら洗濯をする場景が生々しく描写されています。近代文明の華々しい西欧から帰国したばかりの荷風にとって、明治の日本はまさにそういう場景そのものであったのでしょう。来青閣の主人である高圧的な父親のもとでの重苦しい居候暮らしをする荷風は、激しい絶望感にさいなまれることになったものと思われるのです。これがいろんな作品に現れてきます。

戦後になって、余丁町が大きく変わった点は、余丁町通りの拡張でしょう。いよいよ今年の3月に完成いたしますが、台町から抜弁天にかけてはいまや電柱はすべて撤去され、広くて美しい街路が出来上がりました。松本哉をはじめ多くの荷風ファンを悲しめてきた余丁町のうらさびしい風景もようやくすっきりしてきたのです。

その中で荷風の時代から変わらないものもあります。静けさです。今でも余丁町通りから辻を少し入るとは街は驚くほど静寂さに包まれています。日中、家の中で猫が歩く音が高く響くぐらいの静けさです。荷風は病的なまでに騒音を嫌いましたがわかるような気がします。
地図(余丁町)荷風塾学校通信 No.1掲示板へ書き込み

〔再録〕荷風とお金と物価の悲劇

「荷風塾」(永井荷風ファンクラブ)学校通信 No.6
             荷風とお金と物価の悲劇

2002.8.6むかしの小説などを読むとき、お金の単位に苦労することがよくあります。「○○円だ」と書いてあっても、それがどういう意味を持つのか、高いのか安いのかよくわからない。特に荷風の小説にはお金が頻繁に登場します。そこで明治・大正・昭和の各年代を通じて貨幣価値がどう変化したのかを調べ、それを荷風の年表に組みこんでみました。さらに、毎年、荷風が稼いだお金、使ったお金、結果として金融資産残高はどう推移したのかなども表計算ソフトを使い大胆にも推定してみました。その一部が下のグラフです。とても面白いことが分かりました。



推計方法について

当時の物価の推計ですが、卸売物価指数については日銀の戦前基準の長期統計があり信頼できそうです。消費者物価については明治まではさかのぼれませんが、足らない部分は醤油やお米の値段で代用させ一応の数字が作れます。これで当時の価格水準は推測できるわけですが、その価格が「当時の人々にとって」どういう風に実感されたかは、当時の賃金水準を考慮する必要があります。結局、消費者物価基準、卸売物価基準、賃金基準の三つの基準で「一円の値打ち」を計算いたしました。この三つの数字を参考にしながら当時の文章を読むと、ぐっとわかりやすくなるようです(自画自賛)。

荷風の金銭的な収支状況については断片的ではありますが、たくさんの数字が残されています。税務署による所得金額の認定とか、敗戦直後の財産税の計算とか、不動産の売買金額とか諸々の数字が日乗に書かれています。吉野俊彦氏が『断腸亭の経済学』という面白い本でそういう部分をたくさん抜き出して居られますので、活用させていただきました。それらの要所要所の数字を押さえて、それが実現するような年々のキャッシュフローを推計すればいいわけです。となるとエクセル表計算ソフトの出番です。段階的接近を繰り返し、なんとか矛盾がないところまでつじつまを合わせました。計算表(エクセルファイル)は公開フォルダーに入れてありますので興味のある方はダウンロードしてください。

これらの数字からいろんな事が言えると思いますが、私にとって印象的だったのは、荷風は大正年代の末から(円本ブームに乗じて)ほぼ右肩上がりに自分の金融資産を増やし続けたにもかかわらず、それが物価水準とか賃金水準といういわゆる外的尺度で測ると、きわめてドラスティックな上下変動を示していることです。上に示したグラフでもおわかりいただけますが、絶対金額では戦前ほぼ安定していた荷風の資産残高は、昭和の初めのデフレ状況下では大きく購買力を上げ、荷風はきわめてお金持ちになったように感じたと思われます。でも以後経済はインフレに転じ年々財産の(物価賃金比較での)減少が続き窮乏感が強まります。敗戦直後、戦時中に書きためていた作品を発表しふたたび巨額の現金を手に入れるのですが、預金封鎖とインフレでまたもや(物価賃金水準からみて)極端な貧乏になるという具合です。

これは個人ではコントロール出来ないまったくの外部環境によるもので、金融資産だけが頼りの老人荷風にとっては精神的にとても厳しいものがあったと思われます。4回にのぼる空襲による罹災以上に、戦前戦後の経済変動は荷風に大きなストレスを与えたと考えられるのです。その影響が書いた作品にも現れてきているように思います。

文学もエクセルを片手に読むと一段と楽しくなります。

(参)荷風経済年表抄(余丁町散人作成) 

























〔再録〕荷風碑の誤植の責任者は誰か?


  荷風塾学校通信No7『荷風の誤植』    余丁町散人、2002.9.20
  
 「荷風」と名が付く本で出れば必ず買うことにしていますが、今回出された矢野誠一のエッセイ集『荷風の誤植』(2002.8.20発行)も早速購入。また新たな発見をしました。三ノ輪の浄閑寺の荷風碑に彫られている荷風の詩の「ミスプリント」についてです。有名な詩なのであえて全文引用します(テキストは岩波の最新版「荷風全集」)。

<引用>
震災

今の世のわかき人々/われにな問ひそ今の世と/また来る時代の芸術を。/われは明治の児ならずや。/その文化歴史となりて葬られし時/わが青春の夢もまた消えにけり。/團菊はしをれて楼痴は散りにき。/一葉は落ちて紅葉は枯れ/緑雨の声も亦絶えたりき。/圓朝も去れり紫蝶も去れり。/わが感激の泉とくに枯れたり。/われは明治の児なりけり。/或年大地俄にゆらめき/火は都を焼きぬ。/柳村先生既になく/鴎外漁史も亦姿をかくしぬ。/江戸文化の名残煙となりぬ。/明治の文化また灰となりぬ。/今の世のわかき人々/我にな語りそ今の世と/また来む時代の芸術を。/くもりし眼鏡をふくとても/われ今何をか見得べき。/われは明治の児ならずや。/去りし明治の世の児ならずや。
<引用終わり>

問題は、この詩の中で「圓朝も去れり紫蝶も去れり」とある「紫蝶」とは誰のことかと言うことです。これについて『荷風の誤植』で矢野誠一は「紫蝶」と名乗る人で圓朝と並び称するような人は居なかった。たぶん幕末から明治にかけて人気を博した新内語り富士松「紫朝」の誤植だろうとされているわけですが、その発見の経緯が面白い。実に川本三郎氏がわざわざ矢野誠一に手紙で聞いてきたというのです。

小生がこの「ミスプリント」についてはじめて知ったのは、1999年8月の江戸東京博物館での川本三郎の講演でした。矢野誠一はこの随筆を99年11月に書かれていますのでほぼ同時期ですので、川本氏は矢野誠一に確かめられたあと講演でお話になったものと思われます。一大発見とのことで会場は大いに沸きました。

小生もそうか誰も気がつかなかったのかと面白がっておりましたが、ところがその後、古本屋で買った磯田光一の名著『永井荷風』(昭和54年初版)を読んでいますと、その中で引用されている荷風の「震災」の文章はちゃんと「紫朝」となっていることに気がつきました。あわてて旧版の岩波全集(昭和39年)を見るとそこでも「紫朝」となっているではありませんか。でも最新版の岩波全集では「紫蝶」となっている。なんだか狐につままれたような気分です。

こうなると俄然興味がわいてきますので、いつもは読むことのない「校異表」なぞを引っ張り出して調べますとこういうことのようです。この詩が最初に活字になったのは1946年筑摩書房から出た『来訪者』で、そこには「紫蝶」と誤記されていたものを、中央公論社から出された「荷風全集」(1959年)ではだれかがこのミスプリントに気がつき「紫朝」と直したことがわかりました。その後出版された1964年の岩波版「荷風全集」でも正しい「紫朝」となっています。磯田光一は中央公論社版か岩波版かのどちらかの荷風全集から引用したので当然「紫朝」となるわけです。ところが岩波が1994年に最新版の荷風全集を出すに当たって、厳密に荷風の自筆原稿を確かめるとそこには「紫蝶」と書いてあった。あくまでも原本に忠実に記載するという編集方針も元に、あえて間違った「紫蝶」と元に戻したと言うことのようです。

荷風碑が建ったのは昭和34年に荷風が死んですぐあとだったと思いますので石碑には『来訪者』に書いてあるままを彫ったものでしょう。間違いに気がついて直した中央公論社の編集者は凄いと感心いたしました。さらに荷風の書き間違いをあえて元に戻してそのまま印刷するという岩波の編集方針にも敬服いたしました。でもそのおかげでいろんな混乱が起きたことも事実のようです。

何を細かいことを騒いでいるのだとおっしゃるかも知れませんが、荷風ファンというものはこのようなどうでもいいような細かいことに一喜一憂して大はしゃぎする人々なのです。このあたりの愉しみに淫することができないようでは、なかなか荷風ファンとは言えませんぞ。でもご安心ください。荷風が好きな人はだんだんそうなるのです。この駄文に興味を持ってここまで読んでくださったあなたも、そろそろそうなりかけている・・・。

最近小生の手持ちCDを整理していると新内のCDが出てきました。蘭蝶という色男に花魁が惚れるという「蘭蝶」という新内です。荷風はきっと紫朝が語るこの新内「蘭蝶」が大好きだったので、つい紫朝を「紫蝶」と誤記してしまったのではないかというのが小生の推理ですが、はたしてどうでしょうか。


追記)ここまで書いてきて、念のために川本三郎『荷風好日』(2002年2月)を読むと、川本三郎は後日、紫朝は若いときに紫蝶と名乗っていた時期があったという新たな発見をしたとの追記がありました(森まゆみ『長生きも芸のうちー岡本文弥百歳』に書いたあった由)。こうなってくると中央公論社の編集者が余計なことをしたと言うことになる。わかったと思ったらまた迷路にはまりこんでしまいました。荷風をめぐる事実関係は複雑怪奇です。奥が深いのう。











 

〔再録〕荷風はどこで幸徳秋水の囚人馬車を目撃したのか?


「荷風塾」学校通信
School News
2002.03.09学校通信  No.3
荷風はどこで秋水を見たのか
     余丁町散人「荷風塾」学校通信 No.03 です。引き続き余丁町関連の話題で、今回のテーマは「荷風はどこで幸徳秋水を乗せた囚人馬車を目撃したか」と言うこと。

前回も触れましたが、当時日本きってのハイカラ男だった荷風が欧米から帰国後、急に文明開化に背を向けて江戸指向を強めていくきっかけに幸徳秋水事件があります。幸徳秋水とは明治43年年6月いわゆる大逆事件に連座して検挙され、天皇暗殺計画の主謀者として明治44年1月死刑を宣告され、24日処刑された明治の社会主義者ですが、荷風が住んでいた余丁町のすぐ裏にある市谷監獄に収容されていたのです。荷風の随筆「花火」の中に荷風が秋水を目撃する有名なくだりがあります。次の文章です。

「明治四十四年慶應義塾大学に通勤する頃、わたしはその道すがら折々市ヶ谷の通りで囚人馬車が五六台も引き続いて日比谷の裁判所の方に走っていくのを見た。わたしはこれ迄見聞した世上の事件の中で、この折程云うにいわれない厭な心持ちのしたことはなかった。わたしは文学者たる以上この思想問題について黙していてはならない。小説家ゾラはドレフュー事件について正義を叫んだため国外に亡命したではないか。然しわたしは世の文学者とともに何も言わなかった。私は何となく良心の苦痛に耐えられぬような気がした。わたしは自ら文学者たることについて甚だしき羞恥を感じた。以来私は自分の芸術の品位を江戸戯作者のなした程度まで引き下げるに如くはないと思案した。」

これは荷風の転向のきっかけを説明するものとしてよく引用される有名なくだりです。これに対して、これは荷風のポーズであるとかいろいろ議論もあるのですが、散人の興味は、あくまでも「荷風は秋水をどこで見たか」という点でした。

囚人馬車と荷風の通勤経路
  市電路線図と坂道がポイントこれについては、いままで何となく曙橋の住吉町交差点あたりと考えていました。ところが最近当時の東京市街地図を手に入れたので検証してみたところ、考え違いをしていたことがわかったのです。

まず囚人馬車が日比谷に行く経路ですが、当時の市ヶ谷監獄は今の台町にありました。しかし台町坂はまだなかったので馬車は安養寺坂を下り曙橋商店街から靖国通りに出て左に曲がることになります。問題はこの次で、日比谷に行くためには津守坂を上がるルートと本村町を右に回って四谷見附に出る二つのルートがあります。でも当時の津守坂は非常に狭くとても馬車が通れないようであり、やはり本村町右折の線でほぼ間違いないと判断できます。

つぎに荷風ですが、余丁町から慶應義塾に行くのに当然市電に乗ったわけですが、当然靖国通りの住吉町交差点で電車に乗ったはずと散人は考えておりました。だから秋水を目撃したのも住吉町と思っていたのですが、今回調べてみて、実になんと当時の靖国通りには市電が走っていなかったことがわかったのです。荷風は市電に乗るためには四谷見附まで行くか、市ヶ谷見附まで行くか、いずれにせよ住吉町から相当歩いていたことがわかりました。

荷風はどちらの停留所を使ったかですが、両停留所とも余丁町からの距離はほとんど同じです。でも重要なことは坂です。四谷見附に行くには(徒歩ですからいろんなルートが考えられますがいずれにせよ)かなり急な上り坂を登らないと行けない。それに反し市ヶ谷見附の停留所は左内坂を下りた低地にあったと地図に書かれており、余丁町/住吉町から下り坂をだらだらと下って行けば着く。当然荷風は市ヶ谷に行ったと思われます。

ということで馬車と荷風の辿った道筋ははっきりしてきました。よって両者の接点は「住吉町から本村町までの間の靖国通り上のどこかである」ということになります。でも、正確にどの地点で出合ったかということは、まだはっきりしません。
再び荷風の文章に戻って
 市ヶ谷本村町に立ちこめる地霊
ここで荷風の文章をもう一度読むことにしました。荷風は「日比谷の裁判所の方に走っていくのを見た」と書いていることが重要であると思います。靖国通り(市ヶ谷の通り)上で馬車が「日比谷の裁判所の方に」行ったと表現できる場所といえば、どうしても本村町の交差点一カ所ということになるからです。荷風は通りを市ヶ谷見附の方角に歩いていた。馬車は荷風を追い越して、本村町を右折し日比谷の方角に向かって坂を上って行った、ということになるのです。

荷風がこの重要な「思案」をしたという本村町は、もと尾張藩の上屋敷でした。その後、陸軍士官学校となり、陸軍参謀部がおかれ、現在は防衛庁の新庁舎がそびえています。極東軍事裁判もここでやりました。三島由紀夫の自決場所としても有名です。なにか恐ろしい地霊がこの付近に立ちこめているような気がいたします。

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左の写真は靖国通り本村町丁字路を四谷見附側から見たところ。荷風と囚人馬車は左からやって来た。正面は防衛庁の新庁舎。
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このたび川本三郎の『荷風好日』が発売されました。同氏がこれまで雑誌などに発表されたエッセーをまとめたものですが、なかなか楽しめます。散人のコメントを掲示板に載せました。下のリンクです。
川本三郎『荷風好日

〔再録〕荷風とお岩さん


「荷風塾」学校通信
School News
2002.3.20 学校通信 No4 
荷風とお岩さん
    余丁町散人「荷風塾」学校通信の第4号です。今回は余丁町からちょっと離れて、荷風と於岩稲荷の関係について。お岩さんといえば四谷左門町の田宮神社。余丁町から目と鼻の先です。当然荷風もここにお参りしたことがあるはずと睨んでいたのですが、違うんですね。別のところのお岩さんだったんです。これが今日のお話。

散人は年甲斐もなくお化けのお話が好きなんですが、荷風はさすがは合理主義者、あまりその類のお話は書いていません。でもその荷風にも「お化け小説」に近いものもがあるのです。それが昭和19年に書かれた小説「来訪者」。お話は、老齢期に達した作家(荷風)が偶然文学を語り合える二人の若い友人に巡り会う。しかし、結局彼らに裏切られ、失望落胆するというものですが、主人公の老作家(荷風)が書いた『怪夢録』というお化け話の原稿が重要な小道具として使われているし、また悪役になる若者は(その罰として)お岩稲荷のそばの越前堀の隠れ家で人間離れした淫女に苦しめられるという、荷風にしては珍しく「お化け小説」の色彩が強いものです。とても面白い。

ところがこの小説の評判は決してよくありません。為にするために書かれた陰険な個人攻撃の文書と見なされることが多いようです。確かに、この「悪い若者」のモデルとなった平井程一(アーサー・マッケンの翻訳者として知られている人物)はかなり迷惑を被ったようです。でも実際の平井程一は博覧強記の立派な人物であり、いまでも彼を師と仰ぐ人々は少なからず存在するようで、それらの人たちによって、平井程一先生を攻撃した荷風はとんでもない「陰険爺」だと書かれる、というのが実態のようです。



紀田順一郎『略して記さず』では
 たとえば平井程一に私淑した紀田順一郎は『略して記さず』と題した文章の中で次のように書いています。

<引用はじめ>
「荷風は『おかめ笹』という滑稽小説があるように、本来ユーモア感覚に富んだ人だが、この作品はジョークにもならなかった。終わりに近い部分で荷風が「京橋区湊町は越前堀のお岩稲荷の側」にあるという二人の隠れ家を探索に行く場面があるが、お岩稲荷は昔から四谷左門町にあるものと相場が決まっている。こうした初歩的なミスが生じたのは、是が非でも二人の人物を淫靡かつ矮小な世界(ここでは怪談)に押しこめることで頭がいっぱいだったからであろう。お常をお岩に見立て、真夜中になると人が変わって白井を追い回すという趣向により、荷風は単純な復讐心を満たしているのである。(中略)要するに、あらゆる意味で荷風の執拗な復讐心の現れた作品というしかない」
<引用終わり>

痛烈ですね。散人もお岩稲荷は四谷の左門町にだけあるものと思っていましたので、越前堀というのはお話を面白くするために荷風が設定したフィクションだろうと考えていました。しかし、昨年ネットニュース fj.books で久留さんという方から、当時お岩稲荷は越前堀に移転していたので、この点については荷風が正しく「初歩的なミス」をしたのは紀田順一郎の方だと教えて貰いました。いやあ、嬉しかったですねえ。さすがにネットの世界は広大です。いろんな物知りがいる。

早速、四谷の田宮神社(お岩稲荷)に赴き縁起を調べますに、その通りだと判りました。お岩稲荷の始まりは四谷左門町で寛永13年(1636年)に遡りますが、文政8年(1825年)の東海道四谷怪談の上演以降、歌舞伎役者を中心に参拝客が増え「於岩稲荷」として有名になります。しかし明治12年の火事で社殿が焼失し四谷から越前堀に移ったのでした。それが第二次世界大戦でまた焼失し、今度は四谷左門町、新川2丁目(越前堀)二カ所に再建したということのようです。荷風が「来訪者」を書いたのは昭和19年ですから、その時は於岩稲荷はまさしく越前堀にあったのでした。

散人はこの度「来訪者」をもう一度読んでみましたが、「筆誅の書」という印象は受けませんでした。東京下町の風景の描写もしっとりしていて、さすがは荷風とうならせますし、老作家の青春を惜しむ気持ちが、去っていった二人の若い友人への暖かい感情と重なって、むしろ荷風は二人を懐かしんでいるのではないかとさえ感じたくらいです。平井呈一氏と実際に会って話を聞いた秋庭太郎によれば平井程一本人は荷風をいっさい恨んではいなかったそうで、なんだか肯ける気がいたします。
荷風と越前堀のお岩さん
  『日乗』 S10.10.29
最近また『断腸亭日乗』を読んでいて、荷風が実際に越前堀の於岩稲荷に参拝していたことも判りました。昭和十年十月二十九日の記述です。

「晴れて好き日なり。・・・風静かなれば歩みて新大橋に至り船に乗りて永代橋を過ぎ越前堀の岸に上る。・・・河岸通りに聳える三菱倉庫(注:あとで荷風は住友倉庫と訂正している)の裏手に出でお岩稲荷に賽す。震災後この淫祠もいかがなりやと思いしに堂宇は立派に新築せられ参詣の人絶えず。・・・・大正のはじめ頃この淫祠の門前筋向かいの貸家にたしか荒川とやらいいし淫売宿あり。若き後家人妻など多きときは七八人も集いいたることもありき。今日もこのあたりの貸家には囲い者らしきもの多く住めるがごとし」

さすがは荷風です。十年近く前に散歩の途中に観察した場景をしっかり小説に再現しているのです。荷風の実地調査の綿密さにはいつもながら驚嘆いたします。

ちなみに散人の実地調査の結果では、東京には於岩稲荷と称するものが全部で四つあるようです。二つの田宮神社については上に述べた通りです。三つ目は四谷左門町の田宮神社の向かいに陽運寺というお寺で、その境内に「於岩稲荷」が祀られています。田宮神社が越前堀に移転していた間、留守を守ってきたのでしょう。更にもう一つ(四つ目)は四谷三丁目のスーパー丸正の入り口にあるセメントで作られた「於岩供養水かけ観音」です。買い物客が出入りの度に水をかけてお参りをしているので、ここのお岩さんが四つの中で一番「参拝客」で賑わっています。

左に掲載している写真は越前堀のお岩さんのものです。四つ全部のお岩さんの写真はアルバムに作っておきましたので下のリンクからご覧ください。

<追記 2002.8.15>
上記に引用した紀田順一郎氏の文章は荒俣宏編著『大都会隠居術』(1996)における引用を引いたもの(孫引き)です。しかし今般『紀田順一郎著作集第7巻』(1998)を入手、収録されている「日記の虚実 略して記さず」および「永井荷風ーその反抗と復讐」を調べましたが、同じ文章とはなっておらず「初歩的なミス」のくだりは入っておりません。荒俣宏氏は多分最初に出された『日記の虚実』(新潮選書1988)から引かれたものと推察しますが、その後紀田順一郎氏はその部分を書き改めておられます。
四つのお岩さん

Soros Remarks at the Festival of Economics in Trento, Italy


GeorgeSoros.com Newsletter

Dear Friends and Colleagues:
I thought you might be interested in the speech below that George delivered at the Festival of Economics in Trento, Italy this afternoon. I'd call your attention in particular to the final passages where he discusses the current state of the European crisis.
All best,
Michael Vachon

2012年6月2日土曜日

〔再録〕Kafu School News No16 「小説作法」


 Kafu School News No16 「小説作法」


出版不況だという。たしかに毎 月おびただしい新刊書が発刊されるがあまり買わなくなってしまった。買いたくなるようなものが少ない。どうも商業化が進んだというか、書くという仕事が職 業化してしまい、なんとか売って生活費を稼がねばならないという姿勢が、書籍に生活臭をプンプン臭わせるのだ。それが本を詰まらなくしてしまった。本来的 にアマチュアの分野である blog においてさえ「Blog を書いてカネを儲けられる時代が来るか? 」(結論はネガティブなものとなっているが)という問題提起が為されるくらいだ。世知辛い世の中になったといえばそれまでだが、昔もそうだったらしい。今 から83年前に永井荷風はそういう風潮を嘆き、諫めている(「小説作法」)。 

大正9年に書いた「小説作法」 とは数十項目に渡る「文章家たるものは・・・」というマニュアル。今で言う文章読本みたいなもの。各項目それぞれになかなか含蓄の深い言葉が連なってお り、人生読本としてもいい。この一項目に経済的な事柄について触れたものがある。ただあまりに正直に書いてしまったため、荷風は文壇から総スカンを食ら うことになった。でも鋭い。

<引用>
一 読書は閑暇なくては出来ず況や思索空想又観察にお いてをやされば小説家たらんとするものはまづおのれが天分の有無のみならず又その身の境遇をも併せ顧みねばならぬなり行く行くは親兄弟をも養わねばならぬ やうなる不仕合わせの人はたとへ天才ありと自信するも断じて専門の小説家なぞにならんと思ふことなかれ小説は卑しみてこれを見れば遊戯雑伎にも似たるもの 天性文才あらば副業となしても亦文名をなすとの期なしとせず青春意気旺盛の頃一二の著作評判よきに夢中となりその境遇をも顧みず文壇に乗り出でこれからと いふ肝腎な処にて衣食のために乱作し折角の文才もすさみ果て末は新聞記者雑誌の編集人なぞに雇われ碌々として一生を終わるものあるを思はばいったん正業に つきて文事に遠ざかるともやがて相応の身分となり幾分の余裕を得て再び筆を執るもなんぞ遅きにあらんや平素その心を失わずば半生世路の辛苦は万巻の書を読 破するにもまさりて真に深く人生に触れたる雄編大作をなす基ともなりぬべし支那の文学は離騒を始めとして韓柳の文李杜の詩に至るまで皆副業の産物なり西洋 の文学を見るもモリエールは旅役者なりけりヴォルテールシャトーブリアンの如き一代の文豪終生唯机にのみ向かひたる人にはあらず。
<引用終わり>

付け加えると、カフカもそうでしたね。保険会社のサラ リーマンでした。『カ フカ事典』(三省堂) が発売となりましたが、あまり知られていない彼の人生が書かれているようで良さそうです。

Posted: Thu - July 31, 2003 at 10:37 AM   Letter from Yochomachi   永井荷風       Comments (2)