2002年12月29日日曜日

〔再録〕荷風はどうして時代が読めたのか

2002.12.29


荷風はどうして時代が読めたのか。

荷風を読んでいて感心するのは、文学的才能もさることながら、荷風は実に時代が読めた人だったと言うことです。明治、大正、昭和のそれぞれの時代で、実に洞察力のある情勢判断と予測をしており、今から見るとそのほとんどが正しかったことが分かります。政治経済の勉強なぞしたことがなく、新聞すら満足に読まなかった荷風がどうしてこのような的確な情勢判断をすることが出来たのか、今回はこれを考えてみたいと思います。

もちろん荷風は西洋かぶれで日本の軍人が嫌いでしたから、悪口ばっかり言って、それが結果的に的中したとも言えないことはないでしょうが、それだけではない。例えば、昭和6年11月10日の『日乗』には「つらつら思うに、今日わが国政党政治の腐敗を一掃し、社会の気運を新たにするものは、けだし武断政治を措きて他道なし」と政党政治の問題を正確に捉えていますし(軍人の方がまだましといっているのは「こんなのだったら猫にやらせた方がまし」と言うぐらいの誇張的表現でしょう)、昭和11年2月14日には「日本現代の禍根は政党政治の腐敗と軍人の過激思想と国民の自覚なき事の三事なり」と、軍人だけの問題ではなく日本人全体の問題として捉えているのは非常に的確と言わねばなりません。海外情勢にしても、西欧諸国のことを手放しに礼讃したのでもなく、昭和7年10月3日には、「英国は世界到るところに領地を有す。しかるにわが国が満州占領の野心あることを喜ばずは奇怪の至りと言うべきなり」と英国の批判をしたかと思うと「然ると雖も日本人の為すところも亦正しからず」と続けて、当時の世界情勢を実に的確に要約しているのです。経済問題についても昭和18年12月31日に「戦争終局を告ぐるに至る時は、政治は今より猶甚だしく横暴残忍となるべし。必ず、債券を焼き私有財産の取り上げをなさでは止まざるべし」と、戦後の預金封鎖、財産税、超インフレによる資産没収を正確に予測しています。荷風がやった土地株式の売買なども、今から見ても全て絶妙なタイミングでやっており、散人などは足下にも及びません。

何故こんなに先が見通せたのか、理由をいろいろ考えていたのですが、結局、荷風が時代を読めたのはいわゆる「傍目(おかめ)八目」という奴ではないかと思い始めました。「傍目八目」とは将棋を横で見ている見物人は頭に血が上っている当人達より冷静なので八目先が読めるということわざですが、荷風は「当事者」でなかったからこそ情勢が読めたと言うことだと思います。荷風が当時の日本社会につくづく厭気を覚え「江戸戯作者の程度まで身を引き下げよう」と決心したというくだりは「花火」に書いてありますが、この時点(明治44年)で荷風は実社会と距離を置くようになったと言えます。しかし世捨て人のように完全に現世から身を引いたわけではなく、現に東京で世俗的な生活を続ける。この社会との「適当な距離感」こそが荷風をしてたぐいまれなる時代の予言者としたといえるのです。

これは荷風のコスモポリタン的な性格と密接に関係しているようにも思います。本当に不思議なのですが、明治に西欧に渡った森鴎外、夏目漱石、永井荷風を較べてみますと荷風のコスモポリタン的な性格が鮮明になってきます。荷風は西欧に於いて、日本留学生を例外なしに悩ませた「日本人であるということのコンプレックス」を全く感じていなかったようなのです。これは実に不思議です。豪快な森鴎外ですら、ドイツで「鼻くそをほじるのは日本人だけだ」と言われて、ドイツ文献を一生懸命に調べ遂にドイツ人も鼻くそをほじるという記述を見つけて鬼の首を取ったように喜ぶということをしました。これはやはりコンプレックスです。漱石はロンドンの町で自分の姿を鏡に見て言うに言われない劣等感にさいなまれノイローゼになったことは有名な話です。二人とも日本人であると言うことをとても意識して生活をしていた。自分と日本を同一に考えている。当事者の考え方です。ところが荷風についてはそういう話が一切なかった。日本人駐在員の悪口は言うのですが、自分と明らかに距離を置いている。

荷風にはコンプレックスというものがもともと薄かったことがこういう事に繋がったのだろうと思います。ことに西欧コンプレックスは、日本人の場合、過激なナショナリズムに繋がりやすいだけに、荷風がそれを持っていなかったのはとても幸せだったと思います。コンプレックスを持たないことが、荷風をナショナリズムから遠ざけ、コスモポリタンとし、距離を置いた冷静な情勢判断を可能にさせたと言えるでしょう。

このコスモポリタン的な性格は、荷風の場合、小さな弱い存在に対する愛情にも繋がっていると思います。フランスからの帰路、イスタンブールでトルコの旗を見て、同情と感動を覚えるくだりがありますが、あれは弱者への愛情でしょう。捕らえられた台湾土人に対する同情や、韓国、中国に対する惜しみない愛情もそうです。荷風にとっては国籍は関係なかった。『ぼく東綺譚』などの一連の小説でひかげの女たちへの愛おしみも、自分と同じ集団に属していない人たちへの愛情であり、同じコスモポリタン的なものが感じられます。ナショナリスティックな民族主義者達はどうしても自分と同じでないものを排除し憎むという傾向があります。集団に属する組織人もそうです。それらの邪悪な感情は、もとはといえばコンプレックスから來ているように思えてなりません。荷風は、現代日本人の生き方考え方においても、教えてくれるところが多い作家だと感じています。








2002年12月24日火曜日



季節のご挨拶
                 ..................
余丁町散人

いよいよクリスマスです。その後はお正月。謹んで季節のご挨拶を申しあげます。今年はあまり良い出来事がなく、子供も独立、家内は里帰り、家族ばらばらでの、あまりぱっとしない年末ですが、来年にはまた来年の風が吹くのでしょう。「新しき年の初めの初春の今日降る雪のいや重け吉事」天平宝字三年(759年)の元日、大伴家持が詠んだ万葉集最後の歌です。家持は当時不遇だったにもかかわらず、恨みつらみはない素直な歌です。こういう気持ちで新年を迎えたいと思います。皆様もどうか良いお年をお迎えください。

この樹のように力強く

我が家の2002年

今年の我が家の10大ニュースを考えてみました。

1)まず何と言っても、家内の仕事が認められたことでしょう(フランス国家功労賞シュバリエ)。変な日本人サラリーマンと結婚したばかりに、やりたいこともやれなかった家内とそれを申し訳なく思っていた亭主にとっての何よりのリコグニションでした。

2)猫を飼う。うちにやってきた猫ピカチュウはとても活動的な家族の一員となりました。

3)ホームページを開設。難しいものだと思っていたホームページをアップル社のサービスのおかげで開くことが出来ました。

4)マックを購入。長らくパソコンから遠ざかっていたものですが、HP開設を機会にパソコンと関連機器を新しくし、遊ぶようになりました。

5)暁の就職内定。大学を出てから専門学校に通うなど本人も苦労しておりましたが、ようやく好きな仕事に就くことが決まりました。とてもよかった。
6)「視点コラム」を再開。現役時代に書いていた視点コラムを再開しました。

7)経済の低迷。これを機会に今まで一喜一憂していた経済動向への執着を捨てることとしました。そうすると相当楽になりました。

8)荷風と親しむ。HPに「荷風塾」というサイトを作ったおかげで、荷風について勉強することが増えました。知れば知るほど奥が深い。

9)フランス語の勉強開始。荷風とフランス文学の関係について興味が湧いています。でもその為には大量のフランス語文献が読めないといけないので、手始めの勉強としてルモンド紙を毎日読み、記事翻訳をHPに上げることにしました。

10)今年の1月に始めたHPへの書き込み蓄積作業を12月になってもまだ続けています。一年近くになります。三日坊主の小生にとっては珍しいことです。この調子でうまく行くと自分なりの自分史となるかも知れません。「のんびり、ぼつぼつ、たのしく、まめに」をモットーに来年も続けていきたいと思っております。

新年の抱負
***

新年にはいつも大風呂敷を広げるのですが、今年もそれを広げてみます。

1)健康管理。言わずと知れた体重管理と運動です。新年は「質実剛健粗食で体を動かして働く一年」とするのです。毎年同じことを言っているのですが、今年もまた同じ誓いを立てます。

2)お勉強。荷風が読んだフランスの小説評論の類を10年がかりで全部読んでみたいとの野心が湧いてきています。新年はまずオリエンテーションから。文献リストの作成から始めて見たいと思います。フランス語のお勉強はもちろん必要です。

3)気晴らし。「引きこもり」兆候が出ているので、たまには積極的に旅行でもしたいな。面倒くさがらずに。田舎道をゆっくりカブリオーレでドライブ旅行というのも考えてみたいです。


フランスにも行きたいな。下の写真は義父のお墓の前の家内。モンマルトル墓地。

2002年12月19日木曜日

Le Monde : 薔薇の剪定は、今が時期!

2002.12.19
ルモンド紙。きょうは薔薇のお勉強。今ちょうど剪定の時期だそうです。春に買ったツルバラを移植しようかと考えていたところでしたので、苦労して翻訳しました。でも理解できないところもある。薔薇は奥が深そう。

La taille des rosiers, c'est maintenant  ! (2002.12.19)

薔薇の剪定は、今が時期!


「耕すことは成長への参加」、「きょうの仕事の結果は、明日のよろこびに繋がる」、この二つの言葉は、植木鉢の底に、蔦がECの紋章のように丸くからんだ模様飾りに書かれたもので、植木鉢メーカーの長年の宣伝文句です。

トルコがECに参加したいと言っていますが、園芸家に喩えさせれば、この蔦の紋章みたいなものでしょうか。蔦の花言葉は「我は、我のくっつくところで死す(死ぬまでくっつきたい)」というものです。

トルコの山々は、我々の庭の多くの球根植物の原産地です。多くの小灌木も、シャクナゲも。葵も黒海周辺の山々で野生しているもので、古代ギリシャ語では「ポント・ヨクシン」と呼ばれていました。香りが高く棘のある野生の薔薇もトルコが原産です。

さて薔薇についてですが、薔薇は寒い内に剪定しなければなりません。最初の水仙やツバキや黄水仙が咲き出してからでは駄目なのです。

つい数ヶ月前に園芸雑誌のコラムで議論されたことなのですが、どの園芸手引き書にも「薔薇の剪定は3月」と書いてありますが、間違っているのです。それに従ってはいけません。今剪定しなさい。

冬に剪定ばさみを使うのです。薔薇という灌木はきわめて早い時期に成長を始めるからです。薔薇は気温の上昇に対してよりも日照時間が長くなることに対して敏感なのです。なかでも「ルゴサ」種は一番早く、一月末には成長を始め、葉っぱが枯れているのに芽がふくらみ始めます。ずっと太陽の光から遮られてきた修道女のように、非常に速い速度で咲き始めるのです。2月の終わりまでには、家の中に入れていた薔薇を外に出すことで、すっかり大きくなります。

もし、3月に剪定するならば、樹液が既に循環を始めた枝を剪ることとなり、薔薇をして、剪られた下の部分から新たに芽を芽吹かせるという、余分な負担を掛けることになるからです。

もし、今、1月末以前に剪定すると、剪られた枝は、樹液はまだ循環していないもので、薔薇は冬眠中と言うことなのです。穏やかな気候の地域では、薔薇は冬の間でも、半分しか冬眠しない状態で、成長を続けています。今年の秋は、最初雨が降らず、後半になって雨が降ったので、若干開花は遅れるようですが、その分とても綺麗な花となるはず・・・。最近またちょっと寒いので、薔薇はまたちょっと眠りについています。

その機会を利用しましょう。薔薇は大きく分けて二種類に分類できます。年一回しか咲かないタイプと、二回咲き、或いは連続して咲くタイプの薔薇です。前者の場合は、枯れた枝とか、古くなった枝や弱った枝、それに伸びすぎて形を崩した枝などだけを、綺麗に剪定するだけに留めます。

ツタバラは小さな花を咲かせますが、枝や幹は軟らかく支柱に支えられていますが、からんだ枝を調べて、枝の一番先にある花を付けた茎や水平に分岐した枝の先にある茎は取り除きます。これらの茎は芽を付けていないので発芽することはないからです。

花を落とした茎から一番最初にある芽を見つけ、そのすぐ下を剪ります。その下からツルバラは伸びていくからです。枝が、曲がりくねりながら、ほぼ水平に伸びていくように、うまく剪定します。まっすぐに枝をしてしまえば、花は先端に咲くだけです。枝を曲げることで、花が全長に渡ってつくことになります。これがツルバラがよくアーチ型にして栽培される理由です。

伝説的に言われていることとは反対に、一回咲きの薔薇も剪定することが出来ます。デリケートな作業で、水平に伸びた枝を弱く剪り、前年に伸びた大きな枝はもうちょっと強く剪ります。灌木性の薔薇も、太い幹を持ったツルバラと同じように、適当な樹に寄せて伸ばすことで、たくさん花を咲かせることが出来ます。

もちろん、多回咲きの薔薇のように丸坊主にしてはいけません。この種の薔薇(多回咲き、の薔薇)はからみつくつかないは別にして、大きくなるものです。からむことと大きくなることは別です。大きくなることでシーズンに何回も花を咲かせるのです。

この薔薇は、強剪定に耐えますが、蔓性の枝についてだけは、一回咲きの薔薇のように注意して剪定しなければなりません。

よく、枝の下から数えて三つ芽の芽のところで剪定しろと言いますが、注意してください。全てに於いて、一般化は、調子に乗ると間違いの元になるからです。

薔薇の成長が遅ければ遅いほど、より強く剪定するべきです。そのことによって、栄養を送るべき枝の数が少なくなり、残された枝はより大きくなり、花もたくさん着けるようになるからです。薔薇が丈夫であればあるほど、強く剪定せずに伸ばすべきです。樹液が満ちあふれているのでどんどん成長するからです。

丈夫な薔薇は思い通りに剪定できます。全体のシルエットを調和した形にととのえ、樹の真ん中まで良く日が通るように枝の中を剪定します。大きな枝は元から剪ってしまうことが出来ます。余分な無駄枝も剪ってしまいましょう。無駄枝は棘がより多く、色が違うので分かります。それは接ぎ木に出来ます。こういう風に手入れをすれば、薔薇は何十年も若者のようにみずみずしく生き続けるのです。

ARTICLE PARU DANS L'EDITON DU 19.12.02

2002年12月18日水曜日

ナショナリズムに逃避する人たち

2002.12.18
インターネットの面白いところは、普段お話しする機会がないような、いろんな人々と意見交換などが出来ることであり、それなりに勉強になるし刺激を受けることが多いのだが、最近気になっているのが、ネットニュースなどでのナショナリズムの高まりである。在日韓国人や外国人に対する露骨な攻撃や、地域差別的な発言、また西欧(米国)や中国に対する感情的な反発や、日本を奉るあまりに南京大虐殺の事実を誤魔化したりする暴論すら目にする。もともとこういう類の人間は居たことは居たのであるが、最近になって特に目立つ。背景には長引く不況と日本の国際的地位の低下がもたらしたフラストレーションの蓄積があるように感じる。

もともと日本人は、こういう紋切り型の決めつけは厭だが、集団の中に自己のアイデンティティーを見いだす人が多いと言われてきた。個人主義者が日本の歴史にいないこともなかったが、それらは常に集団からはみ出してしまった、いわば隠者としての個人主義者に過ぎなかった。大部分の日本人は、自己が所属する集団の盛衰を自己の盛衰と同一視して生きてきた。その集団とは、イエであったり、村であったり、藩であったり、会社であったり、そして「日本」であるわけだ。しかし最近は、村は遠くなり、企業は国際化で一層ゲゼルシャフト化してきているし、いよいよ自己の拠り所とは「日本」しかないと言うことになるらしい。ところが、バブル崩壊以降の日本の地位低下は甚だしい。またグローバル化と自由化が進み、単に日本人であることだけで高所得が保証されることではなくなっている。終身雇用制度や学歴社会という昔の約束事がもはや通用しなくなりつつある。このことがだんだん明らかになるにつれ、フラストレーションがつのり、日本を必要以上に神聖化し、外国を排斥する言動として表れてきているようだ。フーリガン、ナチス、ルペン支持者など、全て弱者の焦りとフラストレーションを、ナショナリズムに逃避することで発散させているものだ。

明治維新の時も、従来の価値観が否定され大量の士族が失業した。第二次大戦直後も大変動の時期であった。しかし、この二つの変革期とも、日本人は新たに帰属すべき集団を容易に見つけることが出来た。明治時代では、藩に変わって「国家」に帰属すれば良かったし、戦後は、お国に替わって「企業」が忠誠心を捧げる対象となった。でも今回は違う。グローバル革命に於いては、国家や企業は必ずしも利益再配分メカニズムではなくなっているのに、国民はそれに替わる新たな帰属の対象を見つけ得ることが出来ないで居る。世界最強の金持ち国家であるアメリカですら、普通の勤労者の所得は落ち目の規制国家日本の勤労者より低い状況を見れば、グローバル国家とはグローバル化のおかげで得られた富を必ずしも自国民だけに再配分するものでないことは明かであろう。これをおかしいというのは、一国エゴイズムでしかないこともまた事実であり理屈が通らない。勤労者はこれをうすうす感じているから、フラストレーションがたまる。「本当の日本」はもっと美しいものであるというわけで、抽象化された「日本」を主張するようになる。

そういう状況下、人は自分に最後の拠り所を求めるしかない。自分の信念とか理念である。そして強者を目指す。日本は国家として落ち目であっても、それがどうしたというだけの、坂口安吾が焼け跡の中で強烈に示した根性だ。ところが日本では、伝統的に、この「個」が確立されてこなかったことは、上に述べたとおりである。宗教も脆弱である。夏目漱石は「私の個人主義」と題した講演の中で、「集団の倫理は個人の倫理より劣等である」と喝破し、日本における個人主義の未成熟を憂慮したが、100年近く経っても未だ道遠しとの感を、ネットでのナショナリスティックな発言を聞くにつれ、強くする。これは危険な兆候である。このフラストレーションの集団的暴発をどう食い止めるのか。基本的には、このようなネガティブな感情は、単にそれを懐柔することだけでは抑えきれないだろう。フランスではシラク新政権が着々と新政策を打ち出し、従来の左派政権が作り出した歪みを一つずつ矯正し始めている。ところが日本では与野党共に大多数が守旧派で占められている上に、国民の大多数も内心は既得権の受益者であることを自覚しており保守的である。日本の本当の危機は此処にあるように思える。

2002年12月14日土曜日

Poissons volent (2002.12.13) 魚が飛ぶ

2002.12.14 
ルモンド。ギリシャの村にお魚の雨が降ったお話しです。「同じ降るならお札が降ってきたらいいな」と言うような輩は、詩心がないのでしょうね。

par Pierre Georges
Poissons volent (2002.12.13)


魚が飛ぶ

結局のところ、そんなに気を落とすこともない。原油でいつも汚染されている海や、しょっちゅう起こる些細な犯罪事件や、経済指標がいつも錐揉み状態にあることや、天気予報はいつも警戒予報ばかり出すことなど、僕らの住むところには厭なことはいっぱいあるけれども。

そんなことは「なにくそ」と言って、ちょっぴり優しい気持ちを持とう。詩心を持とう。たとえば、このアテネからの短い電報だ。アテネの天気は、必ずしもいい天気ばっかりとは限らない。ギリシャの北部の山間地方となれば尚更。でも、あの辺の嵐は、時として人に夢を見させ、笑みをもたらすような趣味の良い嵐だ。コロナという山間部の村で、火曜日、雨が降った。何百という小魚の雨である。無数のほたるの鱗片が天から降ってきたように。

とてもびっくりするような現象だ。というのも「フライの嵐だ、子供達フライパンもってこい」なんと言うことは、そう毎日起こることではないから。だから、これは撮影されてテレビでも報道された。嘘じゃないのだ、本当のことだ。サロニック大学の気象学の先生はちゃんと説明をしてくれた。どんな現象にも説明は付き物だ。翼も持っていないし、熱気球用の浮き袋も持っていないお魚がどうして雨になって降ってきたのかも、ちゃんと説明出来るのである。

こういうことのようだ。1)この地方で激しい悪天候が発生していた。2)その結果、暴風は小規模の竜巻を発生させ、それが電気掃除機のように、近くにあるドイラニ湖の水を吸い上げた。3)その湖の小さな魚が湖水と一緒に吸い上げられ、天高く舞い上がり、北部の方に飛んでいき、そこで雨となって、あたかも奇跡のように村の屋根や路地の上に降り注いだというわけだ。

このようにして数々の伝説や奇跡が起こった話が生まれてくるのは、疑いないところだ。とにかく、このことでコロナの村に住む人々は、自分が歳を取った時に子供に語り継ぐべきお話しを持つことになった。天から魚が降ってきたあの火曜日のことを。これこそ過ぎ去った出来事を伝説として口承で伝えてゆく地方の伝統を利用するべき出来事なのだ。

このお話は我々の気象学からして明らかに珍しいことだ。非常に珍しい。でも決して起こりえないことではない。たとえば、ある朝、または夜、木々の葉っぱが、自動車の車体が、黄色い鱗片で覆われているというような、ある種の夢のような詩的な発見をすることがある。そう、これは起こることだ、保証してもいい。砂漠でもないのに、近くに砂丘がないのに、風が砂を運んで来るではないか。そして砂の雨が降る。遠くの砂漠からの砂が、あのいい香りがする熱い砂が、降ることがあるではないか。

そういう時、いつも同じ夢を見る。パリ・ダカール間に長く伸びる不動の旅の路が、あなたの駐車場まで伸びてきている夢だ。砂を含んだ風、その結果としての砂の雨は、よく知られた現象である。北アフリカから、サハラ砂漠から、風はあたかも巨大な電気掃除機のように、砂を吸い上げ、高く吹き上げ、成層圏にまで持ち上げる。この美しいイメージを思い浮かべてみよう。その砂が追い風を受け、うぶ毛のように飛び、やがて降り注いでくるのが見える。

よく分かったでしょう。これで用心深い人は、牛よけバンパーとワイヤー巻き上げ機付の四輪駆動車を、パリのアブキール通りに吹く砂嵐に備えて買うことになるかもしれない。冗談を言い合うのではなく、むしろ恐怖に震えましょう。最大級の暴風が彼の地で発生したら、明日、パリに降るのは、保証しますが、それはサソリの雨なのです。

ARTICLE PARU DANS L'EDITION DU 13.12.02

2002年12月8日日曜日

Le Monde : 年寄り達、働け!

2002.12.8 
ルモンド。今日の論説は「年寄り達、働け!」とする厳しいご指摘です。日本もフランスも同じような高齢者問題を抱えているので身につまされます。基本的にはその通りですが、日仏共に、労働生産性の上昇の余地は、まだまだ相当あると思う。米国では労働生産性が今でも上昇中なのに、日仏では労働生産性が停滞しているのです。生産量は、労働者数、労働時間に加えて「労働生産性」の関数ですから、生産性が1%でも上がれば大きく変わる。またルモンドも分かっているように週35時間労働制度なんかもまず撤廃するべきですね。
par Eric Le BoucherAu boulot, les vieux ! (2002.12.8)

年寄り達、働け!

総合計画局は今週ある報告書を発表した。この報告書は自分の子供達の将来に関心のある全ての親たちが急いで熟読すべきものである。市場経済が勝利したなぞ言って「計画」の有用性を疑問視する連中も(特にそういう連中は政府内に多く、この6ヶ月この総合計画局を尊大にも無視してきたのだが)、この報告書を読んで深く考えるべきである。ここに、非常に慎重に、しかし最大限の真剣さでもって調べられた我々の将来が、きわめて明確に示されているのだ。

戦後のベイビーブーマー世代がもうじき隠退生活に入ることは知られている。それぞれの職業の年齢ピラミッド構成から、総合計画局の専門家は、職業毎に予想される退職者数を計算した。それにこれまでの傾向を延長して創出されたり消滅したりする雇用者数を付け加えた。これで我々子供の世代の雇用状態を表す大きな数表が完成したのだ。

どこから説明しようか。一番いいのは詳しく全部読むことだ(参照文献、ルモンドの12月7日のレポートおよび発表報告書原文)。様々な発見がある。たとえば、今後の採用者数が一番多いのは政府セクターだ。2000年から2020年にかけて、公務員の必要補充員数は、まとめて50万人と推計されている。政府セクターは、70万人の雇用を必要とする家政補助セクター(乳母、家政婦、庭師などなど)に次ぐ大きな雇用吸収部門となっている。他に、産業自体が若く定年退職者数が少ないが、情報・通信・研究部門でも雇用増が見込まれる。これらの新しい部門では発展が見込まれ多くの雇用が創られるが、職は高技能資格者に限定される。

次に来るのが、よりみんなに開かれた職場だが、工業部門や健康福祉部門。又しても驚きだが、これらの産業部門は新卒者を雇用するのに苦労することになるとのことだ。労働市場の力関係は、従来は給与労働者にとって不利となっていたのであるが、力関係は逆転する。今後は会社側が労働者をどうしてつなぎ止めるか、その術を学ばねばならない。これは既にして今の新卒者に見られる。しかし、手工業者やレストラン経営者なども、いま既に若者を採用するのに苦労すると文句を言っているが、同じことを努力しなければならない。でも、それは自分たちの責任でもある。これらの職種は、若者を採用するには、職業のイメージや就業慣行や、もちろん報酬も、根本的に見直さないといけない。1968年に社会人になったベイビーブーマー達は、今度は自分が引退することで最後の革命を引き起こすことになるのだ。

でも68年世代はそんなに急に退職していくのだろうか。この報告書のもう一つの教訓は(今までの常識を)疑えということにある。もし退職者数と新規就業者数がこのまま推移して行けば、結果は国の経済にとって悲劇的なものとなるのだ。以前は、この人口構造からして、将来は退職者数が新規就業者数を上回ることで、失業者数は減ると単純に算術計算して、将来は失業問題は解決すると考えられてきた。しかし単純計算ではその通りだが、実態は全然ちがうことが分かったのだ。

専門家の計算では現在9%に達している失業率は、確かに下がることは下がるものの、2010年までの平均成長率を年率2.4%として、2010年時点で7.9%にまでしか下がらないと計算している。此処に悲劇がある。この数字でも楽観的すぎるのである。定年退職は、とりもなおさず、生産活動人口の減少である。2006年以降毎年少なくとも2万人ずつ就業希望者が減少する。それに例の不吉な週35時間労働制度を加えると、経済の潜在成長率は低下せざるを得ない。「生産労働人口のほんのちょっとした減少でも成長率を2%以下の押し下げることになる」と総合計画局の責任者は言う。

これは国家経済の一番深刻な問題である。社会負担が重いとか、税金がどうだとか、国家の制度が古くて疲弊しているとか、いろいろ言うことはいいが、そんな問題はこの厳しい現実の問題(労働人口問題)に較べれば、どうってことはないのだ。働く人の数がどんどん減る国ではより豊かになることなど期待できないのだ。

解決策を求めねばならない。どんな? 報告書は全ての可能性を吟味している。女性の就業率を高めること? 確かにその通りだが、もう既に女性の就業率は男性の就業率とほとんど同じにまで高まっている。これだけでは十分ではない。学校の卒業年齢を低くして、早期に職業に就かせるようにするか? でもこれは歴史の流れに逆らうものだし、就業者の能力形成を損なうものである。外人労働者を入れる? それは明らかに一番簡単な解決策ではあるが、もう充分知られているように融和問題があるし、高い能力を持つ労働者を必要とする経済のニーズに応えるものではない。

唯一、本当に工夫できる余地があることは、仕事をより長く続けさせることである。「年寄り達、働け!」である。これが全ての問題の解決の方向である。年金会計の赤字を解決するためには、年金掛け金を払う期間を、大ざっぱに言って5年間長くする必要がある。政府はこれを言い出すのにびくびくしているから、たぶん当初は2年6ヶ月の延長(残りは2008年の新たな年金見直しの時に延長)とするだあろう。しかしこれは数字が明らかに示していることなのだ。経済が十分な潜在成長率で成長するために、また経済が必要とする労働者を確保するために、今流行となっている早期退職制度という殺人行為はやめさせるべきである。

フランスは怠け者のチャンピオンである(グラフを参照)。60歳以上の人間で就業しているのは15%にしか過ぎない。1970年当時ではこれが70%だった。会社側と労働者側はこれまで手をつないで、人員合理化の手段として早期退職制度を推進してきた。痛みの少ない手段ではあるが、同時に全体経済にとっては非経済的な手段である。社会問題大臣は、フランス・テレコムの2万人削減計画発表の直前、この問題はフランスの勇気の欠如を示すものであるとして、早期退職制度は「国家的災難」であると指摘した。フランスは本当に高齢者の就業を全体的に見直さねばならない。ベイビーブーマー達、あなた方はピルを飲んで、フリーセックスをして、充分な子供を作ることをしなかった! 仕方がない。働いてください。

Eric Le Boucher

ARTICLE PARU DANS L'EDITON DU 08.12.02

2002年12月4日水曜日

珊瑚集:月の悲しみ シャアル・ボオドレエル


『珊瑚集』ー原文対照と私註ー

永井荷風の翻訳詩集『珊瑚集』の文章と原文を対照表示させてみました。翻訳に当たっての荷風のひらめきと工夫がより分かり易くなるように思えます。二三の 私註と感想も書き加えてみました。

シャルル・ボードレール
原文       荷風訳
  Tristesses de la Lune Charles Baudelaire

Ce soir, la lune rêve avec plus de paresse ;

Ainsi qu'une beauté, sur de nombreux coussins,

Qui d'une main distraite et légère caresse

Avant de s'endormir le contour de ses seins,



Sur le dos satiné de molles avalanches,

Mourante, elle se livre aux longues pâmoisons,

Et promène ses yeux sur les visions blanches

Qui montant dans l'azur comme des floraisons.



Quand parfois sur ce globe, en sa langueur oisive,

Elle laisse filer une larme furtive,

Un poëte pieux, ennemi du sommeil,



Dans le creux de sa main prend cette larme pâle,

Aux reflet irisés comme un fragment d'opale,

Et la met dans son cœur loin de yeux du soleil.


(Les Fleurs du Mal)


  月の悲しみ シャアル・ボオドレエル



「月」今宵、いよよ惰(ものう)く夢みたり

おびただしき小蒲団に亂れて輕き片手して、

まどろむ前にそが胸の

ふくらみ撫づる美女の如。


軟き雪のなだれの繻子(しゅす)の背や、

仰向きて横はる月は吐息も長々と、

青空に真白く昇る幻の

花の如きを眺めやりて、



惰(ものう)き疲れの折折は下界の面(おも)に、

消え易き涙の玉を落す時、

眠りの仇敵、沈思の詩人は、


そが掌に猫眼石の破片(かけ)ときらめく

蒼白き月の涙を摘取りて

「太陽」の眼(まなこ)を忍びて胸にかくしつ。



『珊瑚集』収録のボードレールの詩は全部で七つ。これが最後のものです。最後に美しい詩が入っていてほっとしました。「月」は "lune"、それから "lunatique" という言葉が出てきました。「気が狂った」という意味です。お月様から滴が垂れて、その滴が頭に入れば、人は気が狂うと言われていた。日本の「竹取物語 り」でも、月の光を浴びるのは不吉というくだりがあり、これは東西共通の言い伝えのようです。荷風は月を愛でる人でした。昭和20年、偏奇館炎上の際、荷 風はゆうゆうと愛宕山にかかる繊月を仰ぎ、それを日記に書きます。太陽よりは月を、表通りよりは裏通りを、社会的栄華よりは陋巷に隠棲することをのぞんだ 詩人の原点が、此処にも見られます。

余丁町散人 (2002.12.4)

--------
訳詩:『珊瑚集』籾山書店(大正二年版の復刻)
原詩:『荷風全集第九巻付録』岩波書店(1993年)

2002年12月3日火曜日

珊瑚集:腐肉 シ ヤアル・ボオドレヱル



『珊瑚集』ー原文対照と私註ー

永井荷風の翻訳詩集『珊瑚集』の文章と原文を対照表示させてみました。翻訳に当たっての荷風のひらめきと工夫がより分かり易くなるように思えます。二三の 私註と感想も書き加えてみました。

シャルル・ボードレール
原文       荷風訳
Une Charogne Charles Baudelaire
   

Rappelez-vous l'objet que nous vîmes, mon âmes,

    Ce beau matin d'été si doux :

Au détour d'un sentier une charogne infâme

    Sur un lit semé de cailloux,




Les jambes en l’air, comme une femme lubrique

    Brûlante et suant les poisons,

Quvrait d'une façon monchalante et cynique

    Son ventre plein d'exhalaisons.



Le soleil rayaonnait sur cette pourriture,

    Comme afin de la cuire à point,

Et de rendre au centuple à la grande Nature

    Tout ce qu'ensemble elle avait joint ;



Et le ciel regardait la carcasse superbe

    Comme une fleur s'épanouir,

La puanteur était si fort, que sur l'herbe

    vous crûtes vous évanouir



Les mouches bourdonnaient sur ce ventre putride,

    D'où sortaient de noirs bataillons

De larves, qui coulaient comme un épais liquide

    Le long de ces vivants haillons.



Tout cela descendait, montait comme une vague

    Ou s'élnçant en pétillant ;

On eût dit que le corps, enflé d'un souffle vague

    Vivait en se multipliant.



Et ce monde rendait un étrange musique,

    Comme l'eau courante et le vent,

Ou le grain qu'un vanneur d'un mouvement rythmique

    Agite et tourne dans son van.



Les formes s'effaçaient et n'étaint plus qu'un rêve,

    Une ébauche lente à venir,

Sur la toile oubliée, et que l'artiste achève

    Seulment par le souvenir.



Derrière les rochers une chienne inquiète

    Nous regardait d'un œil fàché,

Epiant le moment de reprendre au squelette

    Le morceau qu'elle avait lâché.



- Et pourtant vous serez semblable à cette ordure,

    A cette horrible infection,

Etoile de mes yeux, soleiul de ma nature,

    Vous, mon ange et ma passion !



Qui ! telle vous serez, ô la reine des grâces,

    Après les derniers sacrements,

Quand vous irez, sous l'herbe et les floraisons grasses,

    Mosir parmi les ossements.



Alors, ô ma beauté !  dites à la vermine

    Qui vous mangera de baisers,

Que j'ai gardé ka forme et i'essence divine

    De mes amours décomposés !


(Les Fleurs du Mal)

腐肉 シ ヤアル・ボオドレヱル


わが魂などか忘れん、涼しき夏の

晴れし朝に見たりしものを。

小径の角にみきくき屍

捨てし小石を床にして、



毒に蒸されて血は燃ゆる

淫婦の如く足空ざまに投出し

此れ身よがしと心憎くも

汗かく腹をひろげたり。



照付くる日の光自然を肥す

百倍のやしなひに

凡てを自然に返すべく

この屍を焼かんとす。



青空は麗しき脊髄を

咲く花かとも眺むれば、

烈しき悪臭野草の上に

人の息をも止むべし。



青蠅の群翼を鳴らす腐りし腹より

蛆虫の黒きかたまり湧出でて、

濃き膿の如くどろどろと

生ける襤褸をつたひて流る。



此ら等(ち)のもの凡て、寄せては返す波にして、

鳴るや、響くや、揺らめくや。

吹く風に五體はふくらみ

生き肥ゆるかと疑(あやし)まる。



流るる水もまた風に似て

天地怪しき楽をかなで、

節づく動揺に篩の中なる

穀物の粒の如くに舞狂へば、



忘られし繪絹の面に

ためらひ描く輪廓の、

絵師は唯だ記憶をたどり筆を取る、

形は消えし夢なれや。



巖の彼方に恐るる牝犬

いらだつ眼に人をうかがひ、

残せし肉を屍より

再び噛まんと待構ふ。



この不浄この腐敗にも似たらずや、

されど時として君も亦。

わが眼の星よ、わが性の日の光り。

君等、わが天使、わが情熱よ。



さなり形態の美よ、君もまた此の如けん。

終焉の斎戒果てて、

肥えし野草のかげに君は逝き

白骨の中に苔むさば、其の時に、



ああ美しき形態よ。接吻に、

君をば噛まん地虫に語れ。

分解されしわが愛の清き本質と形とを、

われは長くも保ちたりしと。





すさまじい言葉の連続でいささか辟易します。でも音の響きとしてはいい詩で、シャンソンで歌えばきれいな歌になるかも知れない。内容ですが、真宗の御文に も同じようなのがありました。「・・・されば朝には紅顔ありて夕べには白骨となれる身なり。」で知られる白骨御文です。人の考えることは東も西もそう変わ らないと言うことでしょうか。

余丁町散人 (2002.12.3)

--------
訳詩:『珊瑚集』籾山書店(大正二年版の復刻)
原詩:『荷風全集第九巻付録』岩波書店(1993年)

2002年12月2日月曜日

Le Monde : 混血のフランス

2002.12.2
ルモンド紙。今般、アレクサンドル・デュマの遺体が、国家的な偉人をまつるパンテオンに移され、葬られましたが、ルモンドの社説はこのことの意味について述べています。ちょっと感動してしまいました。排他的な日本の純血主義者達は、この論説を読んで、少しは考えて欲しいと思います。

L'éditorial du Monde
La France métisse (2002.12.1)


混血のフランス

11月30日、アレクサンドル・デュマがパンテオン入りをしたが、デュマと共に一つの強い風がこの殿堂(パンテオン)に吹き込んだ。文章が無限の言葉となり、生命が肥沃な小説となるような、激しい抵抗しがたい生命のほとばしりが、この殿堂に入ったのだ。この偉大な人間を通じて生み出された巨大な作品を、祖国が評価したのは明かである。デュマの悪口を言う連中はご愁傷様。この無限のユーモア感覚を持つ作家によってもたらされた大衆ベストセラー文学が、その復讐を果たしたのだ。しかし、忘れてはならないことは、この一体主義の世の中で、この人気がどれだけの征服と復讐の意味合いを持つかと言うことである。好意的であればあるほど、後世の人間は、作品の中で大活躍するマントと剣の英雄達があまりにも有名すぎるからか、この「作家」を作り出した人間(デュマ)そのものについて、何も知らないまま、見過ごしてしまいがちなのである。

なぜなら、彼は、三銃士やモンテ・クリスト伯などの、フランス文学の必須の作品群の作者としての永遠の神話的存在ばかりではないのだ。デュマは同時に、共和党員であり、社会改革に激しく取り組んだ人間であり、ガリバルディの赤シャツを着たバリケードの英雄を支持した人間なのである。そういう人間としてシラク大統領は今回デュマをパンテオンに入れたのだ。彼は同時に、ヨーロッパ人でもあった。精力的にコーカサスからチェチェンまで旅行し、世界に、またその雑駁さに好奇心を示した人間である。最後に、もっとも大事なことだが、彼は白人と黒人の混血児であり、人種差別主義の犠牲者であり、奴隷の子孫であり、奴隷売買の目撃者であったのだ。要するに「混血のフランス」のシンボル的存在なのである。この「混血のフランス」こそが、デュマと共に、本来あるべきところ、すなわちフランスの国家アイデンティティーの心臓部分(パンテオン)に受け入れられたのである。

2世紀前、1802年7月24日、デュマは生まれた。1794年にハイチの奴隷反乱をなだめるために一時禁止されたの奴隷および奴隷売買を、ナポレオンが1802年5月20日にちょうど復活させたばかりの時であった。この歴史こそが、植民地主義と人種差別主義、混血と排他主義、圧政と反抗の歴史こそが、パンテオン入りしたアレクドル・デュマの生々しい小説の原点なのである。アフリカ奴隷女の孫、アレクサンドル・デュマは、同じ名前のアレクサンドル・デュマ将軍の息子であるが、父のデュマ将軍は、奴隷小屋に生まれ、1776年に身分証明書なしでフランスに渡り、ルイ16世に仕える一介の竜騎兵となったが、その能力と勇敢さが飛び抜けており、「革命の将軍」にまで出世した人間であった。

クロード・リブがその著書『女王陛下の竜騎兵』で、デュマの父のことについて雄弁に詳しく書いているが、この共和党員で人文主義者であった混血の将軍の運命は、我々に我々の歴史の暗い面を思い起こさせるものである。1802年5月29日、混血の士官は陸軍から追放されることになる。1802年7月2日には、フランスの内地領土には黒人と混血児は入国禁止となる。1803年1月8日には、異人種間の結婚は禁止されるなどなどである。1806年、悲嘆の中で死んだデュマ将軍は、この人種差別主義の勃興が引き起こした多くの犠牲者の一人であったのだ。この家族の悲劇こそが、作家デュマをして復讐をはじめさせる起点となったものだ。混血のデュマとしての、多様で入り混じったアイデンティティーのシンボルとしてのデュマの復讐である。

2002年11月26日火曜日

Le Monde: 犬は、東アジアにおいて「人間の最良の友」となった

2002.11.26

ルモンド。犬の家畜化は東アジアにおいて最初に始まったとする研究結果が発表されました。これはすごいことです。地球上最初の土器も東アジアで(それも日本列島で)発掘されています。モンゴロイドは地球上で一番古い「文明人」なのです。(もっとも古いだけではあまり自慢にはなりませんが。シーラカンスの例もあるし)

Le chien est devenu "meilleur ami de l'home" en Asie orientale(2002.11.24)

犬は、東アジアにおいて「人間の最良の友」となった

それは、アン王女が11月21日、英国の王室メンバーとしては1649年のチャールズ1世以来はじめて、その愛犬のブルドッグ・テリアが子供も襲ったとして裁判所の被告席に立ったのよりも、以前のことである。

それはまた、昨年のクリスマスにアイボなどのロボット犬が流行ったよりも前のことである。名犬リンチンチンやミルーなどよりも前・・・、それは1万5000年から4万年前に東アジアのどこかで起こったことなのである。そこにおいて、はじめて、狼から派生した犬が人間に飼い慣らされ、その子孫達がやがてユーラシア大陸、新大陸へと広がってきたのだ。このシナリオは二つの遺伝学者達のチームが記述し、11月22日付の雑誌「サイエンス」に掲載された。

今日、犬には多くの種類がある。小さいのや大きいの、毛むくじゃらのもあれば毛の短いのも、頬が垂れたのも鼻がとんがったのも、むく犬のようにおとなしいのもブルドッグのようにケンカ好きなのも、いろいろである。国際犬協会では300種類の犬があるという。それも血統書付のものだけでの話し。こんなに種類が多いので、ダーウィンも「犬の祖先を正確に知ることは、ほとんど不可能なことだ」と書いたぐらいである。事実、狼とコヨーテとジャッカルのうち、どれが犬の祖先なのか、どうも狼らしいとは思われるのだが、正確には分からなかった。1997年になって、はじめて「犬狼」というものを祖先と決定することとなったくらいである。

カリフォルニア大学のチャールズ・ヴィラのチームは、世界中に広がる27群から162の狼を選び、それをコヨーテとジャッカル、それに67種の140匹の犬のDNA配列を比較した。その結果、DNAミトコンドリアは犬と狼ではわずか1%の差違しかないことが分かり、狼が犬の唯一の祖先であることが確定されたのである。

その研究によれば、最初の野生の犬が出現したのは約13万5000年前、すなわち人間による犬の飼い慣らしより10万年前とのことである。コヨーテのジャッカルは狼から派生したが、分岐はもっと以前(約100万年前)と考えられ、犬とは関係ないとのこと。

しかし、どこで犬は狼から分岐したのか。これまたDNAミトコンドリアの出番である。ストックホルムの王立科学研究所のピーター・サヴォレネン氏によれば、DNAの「コントロール領域」という部分で突然変異の蓄積がなされるのであるが、それを東アジア、ヨーロッパ、アフリカ、アメリカ極北からの654匹の犬について調べたところ、凡ての犬でほとんど共通の遺伝的特徴が見られたが、驚くことに、東アジアの犬において遺伝的な多様性が一番広く、一番進化していることが観察されたとのことである。

「これまでわれわれは中東地域で犬の家畜化が始まったと、考古学の発掘結果や他の家畜の多さから考えてがちであった」とサヴォレネン氏は言う。しかし遺伝子は一番信頼できるので上記の結論となった。東アジアの人間はただ犬を最初に家畜化したばかりではなく、多くの違う種類の狼から犬をブリーディングすることもしている。だからこれは「突然変異の偶然」ではないとサヴォレネン氏は言う。この犬の家畜化は約1万5000年前のことであると。

また、チャールズ・ヴィラ氏のチームは、アメリカ大陸の犬についても興味を持って調べた。アメリカ大陸の犬はアメリカ土着の狼から家畜化されたものか、それとも犬としてアメリカ大陸に入ってきたものかという点に興味を持ったのだ。これもDNA配列を調べると、旧大陸の犬も新大陸の犬も祖先は同じであることが分かった。だから犬は、最初にシベリアやモンゴルからベーリング海峡を渡ってアメリカに入ってきたアメリカインディアンの祖先達と一緒に、約1万3000年前に新大陸に渡ってきたことが分かった。かれは犬の家畜化は4万年前あたりだろうという。

この研究結果を読むと、現代の犬の種類の多様性は、最近数世紀の飼育手法によるもので、もともとの原種の相違によるものでないことが分かる。でも、まったくのところ、何故人間は犬を友とすることが有用であると判断したのだろうか? それはDNA鑑定でも分からない。しかし18世紀のフランスの博物学者ビュフォンは、当時の人類中心主義調で、こう書いている。「どうして人類は、犬の協力なくして、他の動物たちを征服し屈服させ奴隷化することが出来たであろうか。安全を確保し、世界を人間中心にまとめていくために、人間はまず動物の中に味方を求めねばならなかった。優しく撫でてやるとくっついてきて服従する動物を味方に付ける必要があった」ということである。

Catherine Vincent

2002年11月25日月曜日

珊瑚集:仇敵 シヤアル・ボオドレヱル


『珊瑚集』ー原文対照と私註ー

永井荷風の翻訳詩集『珊瑚集』の文章と原文を対照表示させてみました。翻訳に当たっての荷風のひらめきと工夫がより分かり易くなるように思えます。二三の 私註と感想も書き加えてみました。

シャルル・ボードレール
原文       荷風訳
L'Ennemi   Charles Baudelaire


Ma jeunnesse ne fut qu'un ténébreux orage,

Traversè çà et là par de brillants soleils ;

Le tonnerre et la pluie ont fait un tel ravage,

Qu'il reste en mon jardin bien peu de fruits vermeils.



Voilà que j'ai touchè l'automne des idées,

Et qu'il faut employer la pelle et les râteaux

Pour rassembler à neuf les terres inondées,

Où l'on creuse des tous grands comme de tombeaux



Et qui sait si les fleurs nouvelles que je rêve

Trouveront dans ce sol lavé comme une grève

Le mystique aliment qui ferait leur vigueur ?



- O douleur !  ô douleur !  Le temps mange la vie

Et l'obscur Ennemi qui nous ronge le cœur

Du sang que nous perdons croît sst se fortifie !


(Les Fleurs du Mal)

仇敵   シヤアル・ボオドレヱル
わが青春は唯だ其処此処に照日の光漏れ落し

暴風雨の闇に過ぎざりき。

鳴る雷のすさまじさ降る雨のはげしさに、

わが庭に落残る紅の果実とても稀なりき。


されば今、思想の秋に近きて、

われ鋤と鍬とにあたらしく、

洪水の土地を耕せば、洪水の土地に

墓と見る深き穴のみ穿ちたり。


われ夢む、新なる花今更に、

洗はれて河原となりしかかる地に、

生茂るべき養ひを、いかで求め得べきよ。


ああ悲し、ああ悲し。「時」生命を食ひ、

暗澹たる「仇敵」独り心にはびこりて、

わが失える血を吸い誇り栄ゆる。



「さ れば今、思想の秋に近きて」これを読めば、本当に「ああ悲し、ああ悲し」と感じます。でも荷風がこれを訳したのはまだ20代でした。すでに心は老人だっ た。老人の美学に憧れている。ただ事ではありませんね。



余丁町散人 (2002.11.25)

--------
訳詩:『珊瑚集』籾山書店(大正二年版の復刻)
原詩:『荷風全集第九巻付録』岩波書店(1993年)

珊瑚集:「秋の歌」シャルル・ボードレール


『珊瑚集』ー原文対照と私註ー

永井荷風の翻訳詩集『珊瑚集』の文章と原文を対照表示させてみました。翻訳に当たっての荷風のひらめきと工夫がより分かり易くなるように思えます。二三の 私註と感想も書き加えてみました。

「秋の歌」シャルル・ボードレール
原文       荷風訳
Chant d'Automne Charles Baudelaire
I

Bientôt nous plongerons dans les froides ténèbres ;

Adieu, vive clarté de nos étés trop courts !

J'entends déjà tomber avec des chocs funèbres

Le bois retentissant sur le pavé de cours.




Tout l'hiver va rentrer das mon être : colère,

Haine, frissons, horreur, labeur dur et forcé,

Et, comme le soleil dans son enfer polaire,

Mon cœur ne sera plus qu'un bloc rouge et glacé.



J'écoute en frémissant chaque bûche qui tombe ;

L'echafaud qu'on bâtit n'a pas d'écho plus sourd.

Mon esprit est pareil à la tour qui succombe

Sous les coups du bélier infatigable et lourd.



Il me semble, bercé par ce choc monotone,

Qu'on cloue en grande hâte un cercueil quelque part,

Pour qui ? - C'était hier l'été ; voici l'automne !

Ce bruit mystérieux sonne comme un départ.




II

J'aime de vos longs yeux la lumiére verdâtre,

Douce beauté, mais tout aujourd'hui m'est amer,

Et rien, ni votre amour, ni le boudoir, ni l'âtre,

Ne me vau le soleil rayonnant sur la mer.



Et pourtant aimez-moi, tendre cœur !  soyez mère,

Même pour un ingrat, même pour un méchant ;

Amante ou sœur, soyez la douceur éphemère

D'un glorieux automne ou d'un soleil couchant.



Courte tâche !  La tombe attend ; elle est avide !

Ah !  lassez-moi, mon front posé sur vos genoux,

Goûter, en regrettant l'été blanc et torride,

De l'arrière-saison le rayon jaune et doux !

(Les Fleurs du Mal)

秋の歌 シャアル・ボオドレエル


吾等忽ちに寒さの闇に陥らん、

夢の間なりき、強き光の夏よ、さらば。

われ既に聞いて驚く、中庭の敷石に、

落つる木片のかなしき響。


冬の凡ては ー 憤怒と憎悪、戦慄と恐怖や、

又強ひられし苦役はわが身の中に帰り来る。

北極の地獄の日にもたとえなん、

わが心は凍りて赤き鐵の破片よ。


をののぎてわれ聞く木片の落つる響は、

断頭台を人築く音なき音にも増(まさ)りたり。

わが心は重くして疲れざる

戦士の槌の一撃に崩れ倒るる観楼かな。


かかる惰き音に揺られ、何処にか、

いとも忙しく柩の釘を打つ如き・・・・そは、

昨日と逝きし夏の為め。秋來ぬと云ふ

この怪しき聲は宛(さなが)らに、死せる者送出す鐘と聞かずや。




長き君が眼の緑の光のなつかしし。

いと甘かりし君が姿など今日の我には苦き。

君が情も、暖かき火の辺や化粧の室も、

今の我には海に輝く日に如かず。


さりながら我を憐れめ、やさしき人よ。

母の如かれ、忘恩の輩、ねぢけしものに。

恋人か将た妹か。うるはしき秋の栄や、

又沈む日の如、束の間の優しさ忘れそ。


定業は早し。貪る墳墓はかしこに待つ。

ああ君が膝にわが額を押し当てて、

暑くして白き夏の昔を嘆き、

軟くして黄き晩秋の光を味はしめよ。



陰鬱な冬を迎える寂しい歌です。東京はまだいいのですが、パリの冬はとても重苦しい。でもどこにでも暖房が入っているので、生活環境としては一昔前の東京 よりはよほど過ごしやすかったと思う。「中庭の敷石に、落つる木片のかなしき響」とあるのは冬に備えて薪を中庭の隅に投げ込む音のことです。「君が情も、 暖かき火の辺や化粧の室も」夏の海の太陽に「如かず」というのは、ちょっとオーバーな気がしますが、夏が東京ほど過ごしにくくないからなんでしょうね。

余丁町散人 (2002.11.25)

--------
訳詩:『珊瑚集』籾山書店(大正二年版の復刻)
原詩:『荷風全集第九巻付録』岩波書店(1993年)

2002年11月21日木曜日

珊瑚集:暗黒 シャアル・ボオドレヱル


『珊瑚集』ー原文対照と私註ー

永井荷風の翻訳詩集『珊瑚集』の文章と原文を対照表示させてみました。翻訳に当たっての荷風のひらめきと工夫がより分かり易くなるように思えます。二三の 私註と感想も書き加えてみました。

「暗黒」シャルル・ボードレール
原文       荷風訳
Obsession Charles Baudelaire

Grands bois, vous m'effrayez comme des cathédrales ;

Vous hurlez comme l'orgue ; et dans nos cœurs maudits,

Chambles d'éternel deuil oû vibrent de vieux râles

Réponent les échos de vos De profundis.


Je te hais, Océan ! tes bonds et tes tumultes,

Mon esprit les retrouve en lui ; ce rire amer

De l'home vaincu, plein de sanglots et d'insultes,

Je l'entends dans le rire énorme de la mer.


Comme tu me plairais, ô nuit ! san ces étoiles

Dont la lumière parle un langage connu !

Car je cherche le vide, et le noir, et le nu !



Mais les ténèbres sont elles-mêmes des toiles

Où vivent, jaillisant de mon œil par milliers,

Des êtres disparus aux regards familiers.



(Les Fleurs du Mal) 
暗黒 シャアル・ボオドレヱル
森よ、汝、古寺の如くに吾を恐ろしむ。

汝、寺の楽の如く吠ゆれば、呪われし人の心、

臨終の喘咽聞ゆる永久の喪の室に、

DE PROFONDES 歌う聲、山彦となりて響くかな。


大海よ、われ汝を憎む。狂ひと叫び、

吾が魂は、そを汝、大海の聲に聞く。

辱めと涙に満ちし敗れし人の苦笑ひ、

これ、おどろしき海の笑ひに似たらずや。


されば夜ぞうれしき。空虚と暗黒と

赤裸々求むる我なれば、星の光さえ覚えある言葉となりて

われに語ふ其の光さえなき夜ぞうれしき。


暗黒の其の面こそは絵絹なりけれ。

亡びたるものども皆覚えある形して

わが眼より數知れず躍りて出づれば。




ちょっと外れますけど、フランスの赤ちゃんってのは、部屋を真っ暗にさせてひとりで寝かすんです。慣れてくると暗くしないと寝ないし、暗い方が安心するよ うになる。何も恐ろしいものが見えない方が怖くないし、楽しい夢が見られるようなのです。「されば夜ぞうれしき」なんです。ボードレールもそういう赤ちゃ んだったのでしょうね。

荷風は "le nu" を「赤裸々」と訳しています。ちょっとポルノっぽくって、これは荷風の obsession だとおもう。


余丁町散人 (2002.11.21)

--------
訳詩:『珊瑚集』籾山書店(大正二年版の復刻)
原詩:『荷風全集第九巻付録』岩波書店(1993年)

2002年11月17日日曜日

Le Monde : シャーロック・ホームズ:推理小説なのか福音書なのか?

2002.11.17

ルモンド紙より、今日はシャーロック・ホームズについて。作者ドイルは聖書から多分に影響を受けたとするバチカン関係者の新説が発表されたとのこと。先日ご紹介したアルカイダの話しといい今日のホームズの話といい、誰もが「本家はうちだ」と我田引水したくなるもののようです。笑えます。

Sherlock Homes : polar ou Evangiles ? (2002.11.13)

シャーロック・ホームズ:推理小説なのか福音書なのか?

著者のコナン・ドイルはキリスト教とは対立してはいたものの、さるバチカンの学者によれば、シャーロック・ホームズが活躍する小説は部分的にテーマと筋書きにおいて聖書を下敷きにしたものであるとのことである。

ロンドンのタイムズ紙のインタビューを受け、ローマ教皇大学の哲学の教授であるマリオ・パルマロは、ドイルは、意識的にまた無意識的に、幼いときに受けたイエズス会の教育により影響されていたと断言する。

でもドイルは1859年に生まれ、1876年にエジンバラ大学の医学部に在籍中にカトリックを放棄している。しかしマリオ・パルマロは「ドイルは最後までカトリックと格闘し続けていた」とする。かれは、その著書『超自然、ワトソン君:シャーロック・ホームズと神の事件』で「福音書には良い推理小説を構成するすべての要素、たとえば死体、人殺し、死体の奇跡的な消滅などの要素が含まれている」と断言するのだ。

もっと具体的に言えば「疑いなく、バスカーヴィル家の犬は悪魔の力を代表するもの」であり、「小説に度々出てくるグリペン・ミールという名前はアングロサクソン語で悪魔という言葉から由来したものである」とのこと。

しかし、シャーロック・ホームズ博物館長のオノーレ・リリー氏によれば、ドイルが聖書に影響されたという話はドイルが信仰を捨てた以上あり得ないのではないかという。しかしバチカンの学者は続ける。「ギリシャ語通訳」の中でホームズが兄のマイクロフトとする会話は、ヨハネ伝の中でのキリストとニコデムスの問答形式と非常に似ていると。「問答リズムが酷似している」とバチカン学者は言う。

さらに推理小説の結末でホームズが遂に真理を理解するという締めくくりも、マリオ・パルマロによれば「聖女マリ・マドレーヌの直感とひらめき」と同じであるという。というものの、ホームズの伝記作家やホームズ専門家の間では、(この新説は)まだまだ疑わしいとされている。ドイルが福音書を説教してたんですって? そんな初歩的な事じゃないんじゃないかしら。

Sylvie Chayette

〔再録〕『珊瑚集』ー原文対照と私註ー 憂悶 シャアル・ボオドレヱル



『珊瑚集』ー原文対照と私註ー

永井荷風の翻訳詩集『珊瑚集』の文章と原文を対照表示させてみました。翻訳に当たっての荷風のひらめきと工夫がより分かり易くなるように思えます。二三の 私註と感想も書き加えてみました。
       シャルル・ボードレール
  原文 
                      
荷風訳
Spleen Charles Baudelaire


Quand le ciel bas et lourd pèse comme un couvercle
Sur l'esprit gémisssant en proie aux longs ennuis,
Et que de l'horizon embrassant tout le cercle
Il nous verse un jour noir plus triste que les nuits ;


Quand la terre est changée en un cachot humide,
Où l'Espérance, comme une chauve-souris,
S'en va battant les murs de son aile timide
Et se cognat la tête à des plafonds pourrris ;


Quand la pluie étalant ses immenses traînées
D'une vaste prison imite les barreaux,
Et qu'un peuple muet d'inflâmes araignées
Vient tendreses filets au fond de nos cerveaux,


Des cloches tot à coup sautent avec furie
Et lancent vers le ciel un affreux hurlement,
Aisi que des esprits errants et sans patrie
qui se mettent à geindre opiniâtrément,


- Et de  longs corbillards, sans tambours ni musique,
Défilent lentment dans mon àme ; Espoir,
Vaicu, pleure, et l'Angoisse atroce, despotique,
Sur mon crâne incliné plante son drapeau noir.


(Les Fleurs du Mal)

憂悶 シャアル・ボオドレヱル


大空は重く垂れ下がりて、物覆ふ蓋の如く

久しくもいわれなき憂悶に嘆くわが胸を押へ、
夜より悲しく暗き日の光、
四方閉す空より落つれば、
この世はさながらに土の牢屋(ひとや)か、
蟲喰みの床板に頭打ち叩き、
鈍き翼に壁を撫で、
蝙蝠の如く「希望(のぞみ)」は飛び去る。
限りなく引續く雨の糸は
ひろき獄屋(ひとや)の鐵棒に異らず、
沈黙のいまわしき蜘蛛の一群、
來りてわが腦髓に網をかく。
かかる時なり。寺々の鐘突如としておびえ立ち、
住家なく彷徨ひ歩く亡魂(なきたま)の、
固執(しうね)くも嘆き叫ぶごと
大空に向かひて傷しき聲を上ぐれば、
送りる太鼓も楽もなき柩の車は
吾が心の中をねり行きて、
欺かれし「希望」は泣き暴悪の「苦悩」は
うなだれるる我が頭の上に黒き頭の上に黒き旗を立つるかな。



『珊瑚集』の二番目の詩です。

陰鬱な詩ですね。低く雲が垂れこみ、暗くて寒い冬のパリならではのもの凄さがあります。でも荷風はこのような陰鬱な冬を経験しなかった。アメリカからフラ ンスに着いたのは7月で、すぐリヨンに向かいます。リヨンでは冬を越しましたが、比較的フランス南部に位置する町ですから、冬はパリほど陰鬱ではありませ ん。リヨンからまたパリに來来るのは翌年の3月28日。パリを去るのが5月28日です。荷風はとてもいい季候のパリしか見ていないのです。
何故荷風はこの陰惨な詩に感動したのでしょう。思うに、荷風は実際このような陰鬱な気持ちでフランスに滞在したのではないかと思 います。心弾ませて念願のフランス行きを果たしたものの、アメリカに残してきたイデスの事を思い、罪の意識を感じながら悶々とした生活を送ったと考えられ ないでしょうか。荷風のイデスに対する気持ちは、ほとんど彼の一生につきまとっていたのではないでしょうか。その後の日本での派手な女性関係は所詮イデス との関係を超える物ではなかった。それが一点。もう一つは、日本への帰国時期がどんどん迫ってくることです。日本に帰らなければならない、日本の制度に組 み込まれなければならないと言う事実が、一つの強迫観念となって心に重くたれ込めていたのだと思います。

荷風の『ふらんす物語』が多くの素晴らしい描写はあるものの、全般的に鬱の気分が強く、『あめりか物語』ほどの精彩を欠くのは不思議な事実です。あれほど フランスに憧れていたのですから、当然『ふらんす物語』の方が生き生きして然るべきところなのに、実際は反対になっている。荷風をめぐる女性関係の分析 は、往々にしてこのイデスを軽視しているように思います。なんと言ってもイデスは、荷風にとってはじめての「長い期間にわたって」一緒に生活した相手なの ですから。少年時の恋は別にして荷風にとってはじめての「大人の恋」だった。荷風は一生忘れなかったと思います。
余丁町散人 (2002.11.17)

--------
訳詩:『珊瑚集』籾山書店(大正二年版の復刻)
原詩:『荷風全集第九巻付録』岩波書店(1993年)

2002年11月16日土曜日

デフレから脱出するための具体策

2002.11.16


先月の「視点」でマルクスモデルを使ってデフレスパイラルの原因究明とその対策を考えてみたけれど、ちょっと評判が悪かったみたい。お給料を減らせとは何事ぞとの苦情が寄せられました。だから利害関係者は困るんです。経済の議論は私利私欲を離れてやらねばならないんですがね。でもたしかに純粋理論的(悪く言えば知的遊戯的)な議論だったことは認めます。今回はもうちょっと具体的に何をするべきか考えてみます。三つあります。

一つには、インフレ期待を醸成することです。デフレスパイラルはみんなが更にデフレが進行するだろう(将来物価が下がるだろう)と確信することから生じるわけで、みんなが将来物価が上がることは確実という認識を持てば直ちに投資活動は再開されます。これは定理的な問題で正しいかどうかの議論の余地はありません。でもどうやってインフレ期待を醸成するか。これが問題です。考えますに円安誘導しかないでしょう。日銀は直ちにドル建ての米国国債を大量に買い付けるべきです。そして円安誘導の覚悟を内外に示す。外国への配慮が必要とか馬鹿なことを心配している場合じゃありません。第一、米国は日本がこのような体たらくで低迷を続けられるよりはドル高を歓迎するという立場ですから文句は言わないはずです。中国の人民元はだいたい安すぎるのだから中国から文句を言われる筋合いはない。東南アジアの国々にしても、日本のデフレスパイラルが続いて困っているわけですから日本の景気回復を歓迎します。それなのに外国への気遣いから円安誘導に消極的な日本人がいますが、本心は、そんなきれいごとではなく自分がタンス預金している円建て資産の(ドル評価での)目減りを心配しているからに過ぎません。断固やるべしです。政府日銀さえその覚悟を示せば内外の投資家は一斉に円を売ってドルを買います。インフレ期待が一挙に具現化します。投資は再開されます。

二つ目は、国内公共事業です。公共事業と言えば拒絶反応を示す人がいますが、やらなければならないものはやらねばならない。具体的には都市部の電柱電線の地中化です。あんなみにくい電柱を外に出して都市景観を著しく醜悪なものとしている国は、先進国の中では日本だけです。いずれやらねばならないものなら不況である現時点で直ちにやりましょう。ただ財政赤字の問題がある。また税金で国民からお金を吸い上げて公共事業をすれば差し引き同じことで景気刺激効果はありません。そこでどうするかですが、電柱の地中化は電力会社に特別の電力債を発行させてそのお金でやるのです。その電力債には政府が保証を付けてもいいでしょう。また相続税の対象から外すとかの税制優遇措置も講ずるべきです。そうすればタンス預金で眠っている個人金融資産の相当部分は電力債購入に向かうでしょう。海外にこっそり隠そうとしていたお金も国内にとどまるかも知れません。いずれにしてももともと税金の取りようがなかったお金ですから、少々の税制優遇措置をとったところで、国税当局として期待税収の減少とはならないはずです。一銭の税金も使うことなく、電柱地中化を義務付ける法律を作るだけで巨額の「公共的」事業が推進出来るのです。個人金融資産の1%がそれにまわったとして14兆円です。十分な景気浮揚効果を経済にもたらします。

三つ目は、年金制度の見直しと確定です。公的年金ではゆとりのある生活を送ることが出来ない上に、その公的年金制度が維持されるかどうかすらはっきりしない状況下、国民は貯蓄に走り自己防衛を図る以外道はありません。更に世代間の不公平感が高まっており、世代間の醜い損得勘定の議論ばかりが目立ち、いずれは年金制度は崩壊するだろうとの予想の元に若者は年金システムから離脱をはじめています。老後に対する不安は高年者以上に若年層で強いと言えるでしょう。どういう制度でもいい。とにかくどういう状況になろうとサステイナブルな年金制度に改めて、これを将来に渡って一切変更しない事を国民に示すべきです。それがあってはじめて若い世代も含めて国民は安心して消費が出来ることになるのです。制度変更によって、現在の受益者(中高年)が多少の損害を被ることになっても、それは国家百年の計のために我慢すべきでしょうが、基本的には多少の負担増が発生してもいまの若年層が貯金なしでゆとりのある老後を送りうるだけの西欧並みの豊かな年金制度とするべきです。現在の公的年金だけでは生活できないと言うのが常識化していますが、こんな制度は先進国として恥ずかしいと言うべきでしょう。現在の年寄りは多少のことは我慢できますが、将来の制度ではもっと給付を充実させるべきだと思います。老後の安心なくして心豊かな現役生活はないのです。

以上が三つの提案です。どうしてこんな簡単なことがすぐ実施できないのでしょうか。当たり前のことを当たり前にやれないこの国のシステム疲労に深い絶望感を感じる今日この頃です。

2002年11月14日木曜日

〔再録〕『珊瑚集』私註 死のよろこび シャアル・ボオドレヱル


『珊瑚集』ー原文対照と私註ー

永井荷風の翻訳詩集『珊瑚集』の文章と原文を対照表示させてみました。翻訳に当たっての荷風のひらめきと工夫がより分かり易くなるように思えます。二三の 私註と感想も書き加えてみました。
シャルル・ボードレール
  原文 
                      
荷風訳
Le Mort joyeux Charles Baudelaire
Dans une terre grasse et plein d'escargots
Je veux creuser moi-même un fosse profonde,
Où je puisse â loisir étaler mes vieux os
Et dormir dans l'oubli comme un requin dans l'onde.


Je hais les testaments et je hais les tombeaux ;
Plutôt que d'implorer une larme du monde,
Vivant, j'aimerais mieux inviter les corbeaux
A saigner tous les bouts de ma carcasse immonde.


O vers ! noirs compagnons sans oreille et sans yeux,
Yoyez venir à vous un mort libre et joyeux ;
Philosophes viveurs, fils de la pourriture,


A travers ma ruine allez donc sans remords,
Et dites-moi s'il est encor quelque torture
Pour ce vieux corps sans âme et mort parmi les morts !
(Les Fleurs du Mal)
死のよろこび シャアル・ボオドレヱル
蝸牛葡ひまはる粘りて湿りし土の上に
底いと深き穴をうがたん。泰然として、
われ其処に老いさらぼひし骨を横へ、
水底に鱶の沈む如忘却の淵に眠るべう。

われ遺書を厭み、墳墓をにくむ。
死して徒に人の涙を請はんより、
生きながらにして吾寧ろ鴉をまねぎ、
汚れたる脊髄の端々をついばましめん。

おお蛆虫よ。眼なく耳なき暗黒の友、
君が為に腐敗の子、放蕩の哲学者、
よろこべる無頼の死人は来る。

わが亡骸にためらふ事なく食入りて
死の中に死し、魂失せし古びし肉に、
蛆虫よわれに問へ。猶も悩みのありやなしやと。

『珊瑚集』の巻頭を飾る詩です。これを最初に持ってきたのは荷風として考えるところがあったと思います。当然自分に引き比べていた。「腐敗の子、放蕩の哲 学者、よろこべる無頼」。若き荷風はこれこそ自分のことだと感じたのは自然です。

"Je veux creuser moi-même un fosse profonde" の訳の後に、行を変えず荷風は「泰然として」という言葉を付け加えていますが、それは次の行の「横へ」にかかる言葉。語数の関係でしょうね。そのほか「腐 敗の子、放蕩の哲学者、よろこべる無頼の死人」と言葉の並び方が原文とは逆になっています。これは動詞の前に「無頼の死人」を持ってくるためなんでしょう が、芸が細かい。

最後の行。蛆虫よ「われに問へ」と訳してますが、どうなんでしょう? (まだ死体の中に苦しみが残っているかどうか)「われに言へ(教えろ)」だと思うん だけれど、何か理由があるのかな。よく分からない。

飯島耕一はこの荷風訳を評して「翻訳技術者の手になる訳ではなく、この通り実行した人の手になる訳」としています。「生きながらにして吾寧ろ鴉をまねき」 という恐ろしい言葉を荷風はそのまま実行しました。「陋巷に窮死する」というのは荷風の若いときからの確信でもあったように思います。

つくづく思うんですけど文語はいいですね。特にボードレールの詩なんかは文語で訳すと大迫力です。口語訳ではどうも様にならないような気がします。聖書も 同じですね。昔の文語訳の方がよほど格調高かったです。

余丁町散人 (2002.11.14)

--------
訳詩:『珊瑚集』籾山書店(大正二年版の復刻)
原詩:『荷風全集第九巻付録』岩波書店(1993年)

2002年11月12日火曜日

Le Monde : セーヌの橋の下には・・・

2002.11.12
 
ルモンド紙から今日は再びパリの話題。セーヌ川の底にはいろんなものが眠っているというお話し。その中に出てくる「カロース型馬車」についてちょっと調べてみました。訳注として書いておきます。

Sous les ponts de la Seine...(2002.11.8)

セーヌの橋の下には・・・

「セーヌ川の底には、黄金がある、錆び付いた船がある、宝石がある、戦の武器がある。セーヌ川の底には、死体がある。セーヌ川の底には、涙がある」この「セーヌ川哀歌」という歌はモーリス・マグルの1934年の作詞。クルト・ヴェイルが音楽を付け、ミュージックホールの伝説的歌手リス・ゴーティーなどの多くの歌い手によって歌われてきた。でもこれは単なる詩にはとどまらないのだ。セーヌ川の底は、実際のところ、あらゆる種類の面白い、びっくりするような、そして時には怖いようなもので、いっぱいになっているのである。
パリの水上警察が厳かに言明している、「セーヌ川の底には何でもある」と。毎年6百万もの人がこの川を利用していることを考えればそれほどびっくりすることでもない。さて、パリ市内に架かる36の橋の下には、いろんな落っこちたもの、捨てられたもの、忘れられたもので、一つの生態系が出来ているのだ。たとえば、セーヌ川は携帯電話機の一大墓地であるし、盗難品なら何でも見つかる場所でもあることも事実。毎年30近くの自動車の残骸が川上の方で見つかる。これは保険金詐欺に絡むものか、荒っぽい泥棒の仕業なのか、本当のところはなかなか分からないのである。
また、冬のセーヌ川(ほとんど摂氏10度の水温)への飛び込み自殺犠牲者は毎年30人にも上る。幸いなことに水上警察の救援隊に救助される人の数も、飛び込み以外も含めて、毎年80人に上る。
しかしセーヌ川の底は、何にもまして、限りなく多様で多彩なもので覆い尽くされている。鉄製の柵や古タイヤ、買い物車、スクーター、多量の建築残骸、さらにちょっと珍しいが、橋の建築や補修に携わった労働者が置き去りにした工具類など。定期的に50年以上も水に漬かっていた砲弾が発見される。第二次世界大戦の時のものだ。時としてエンドウ豆が見つかることもある。大きな川船が沈み、積み荷の豆が流されたのだ。でも一番突飛なものは、疑いもなく、フランス革命当時の時代のものとされた「カロース型馬車」(訳注参照)だろう。これはポン・ヌフ橋の近くの川底に横倒しとなっていた。
だからといってセーヌ川がすっかり汚染されていると言うことではない。観察によると、すっと見かけなかった多くの種類の魚の群れが再び見られるようになっている。だから、セーヌの河岸で釣り竿をのばす人たちは、いまやパーチ(スズキの一種)やウナギ、ナマズ、更にスズキなどの釣果を期待できるのである。鳥類も例外ではない。カモメ、ウ、白鳥やカモなど、日増しに多く川に来るようになっている。そういうことで、セーヌ川は、多くの秘密を隠しながら、その川面に於いてもまた川底に於いても、多くの人・物・動物に出会える場所なのである。

Camille Le Gall

----------------------
訳注 「カロッス型馬車」Carrosse

大型有蓋四輪馬車。ガラス窓がある。川と木製のバネによるサスペンション付。前輪が独立して方向転換できる。また鋼製のスプリングを使用する新型のカロッスは「ベルリーヌ」と呼ばれた。馬車はとても高価であり、いまのお金にして一台3000万円ぐらいしたそうだ。ベルリーヌを軽快にするため半分に切った形にしたものを「切る」の意味から「クーペ」と呼ばれた。いまの感覚で言えば、カロッスはリンカーンコンチネンタル、ベルリーヌはメルセデス600,クーペはさしずめポルシェにあたるのか。当時の人は馬車に乗ることが(またどの型の馬車に乗るのかというのが)ステータスシンボルとして絶対必要で、非常に拘り、所有を渇望したらしい。参考書:鹿島茂『馬車が買いたい!』





2002年11月3日日曜日

秋のお便り


秋のお便り
                 ..................
余丁町散人

あっという間に秋が終わりかけています。「夏のお便り」を書いたのはついこの間のような気がしますが、時間が経つのは早いものです(歳をとったのかな)。最近はいい天気が続きます。新宿御苑恒例の菊花壇展を覗いてきました。右の写真は新宿御苑ならではの「大作り花壇」。まだちょっと早かったですが、来週あたりにちょうどよくなると思います。嵯峨菊、大菊などはとても楽しめました。60代の上品な見物客が多く、展覧会となるといつも大挙して押し寄せるおばさん連中が居なかったことも、とてもよかった。

新宿御苑 菊花壇

うちの庭

山茶花が芽をふくらませてきました。まだほとんどが青くて固い芽ですが、一つだけ小さな蕾を色づかせてきました。左の写真です。散人が夏前にやった「自然流」剪定が功を奏したか、今年は芽の数が多い。冬の間が楽しみです。カキ、シャクナゲについては「にわか隠居の庭仕事」でご紹介の通りです(下のリンク)。

日本経済ですが、デフレが続いています。デフレが続く限り企業は儲からない。企業が儲からない限り株価は戻さない。もう諦めました。最低十年は「塩漬け」にするつもり。長期債も償還が危ないし、結局頼りになるのは手持ちの現金だけ。現金が王様の時代です。それを前提にアグレッシブにライフスタイルを質実生活に転換しました。けしからぬ輩を儲けさせる消費は一切拒否するという前向きの倹約生活です。

不思議なものでこんな質実生活をしばらく続けると今までのいい加減な消費生活が逆に心の貧しいものに見えてくるから面白い。かりに株が上がってももう決して昔のライフスタイルには戻ることはないでしょう。こういう風に感じている人は散人ばかりじゃないと思うし、デフレは当分続きますね。

東京街歩き
***
観光地としての東京

海外旅行より費用が掛かりどこに行っても画一的な国内旅行には出かける気分にはなかなかなれません。逆に面白さを発見したのが「東京観光」。歩いて出かけられるし、これだけ興味深い材料の揃っているところは世界でも少ないのじゃないでしょうか。街を歩く人間を観察するだけでも楽しい。

最近発見したのが家から歩いてすぐの荒木町界隈。何十年も新宿に住んでいるのですが、荒木町のど真ん中に大きな窪地があり、そこに江戸時代からの池が残っていたとは知りませんでした。街全体がいわゆる「ネコ道」という細い迷路となっており、さながらカスバの雰囲気。東京に残された秘境が目と鼻の先にあったのです。

下の写真はその池。スッポンが一匹住んでいます。

2002年10月15日火曜日

〔再録〕デフレ対策はマルクスに聞いてみよう!

閉鎖される旧HPの収録物から面白いのを発見。再録:


2002.10.15


日経新聞を読んでいて久しぶりにマルクスに出会いました。「やさしい経済学」(10月3日から11日まで7回連続)で根岸隆先生がマルクス理論(搾取利子説)の解説をしてくださっていたのです。とてもわかりやすくて勉強になりました。もっと前にこういう説明を聞きたかったです。マルクスはやっぱり天才だったと改めて認識しました。

私が最初に読んだマルクスの『資本論』は実に親父の蔵書でした。父は学校には行かなかったのですが、興味はあったようです。どれだけ理解したのかは不明ですが、「搾取」という概念にはとても敏感でした。雑稿「父のこと」でも書きましたが、田舎から出てきてサラリーマンになったものの、月給取りでは搾取されるだけと言って独立し洋服店を始める。でも洋服店は服地卸業者から搾取されていると判断し、今度は卸売業に転進。さらに卸売業者もメーカーに搾取されていると感じてメーカーの経営を始めるといった具合でした。

その父が一度デフレとインフレについて説明してくれたことがあります。「デフレは月給取りに有利、インフレは商売人に有利」というのです。当時生意気だった私は「そんなことはないでしょう。経済学理論ではデフレもインフレも実体経済に対してはニュートラルなはずです」と一笑に付しましたが、いま根岸隆先生のマルクス労働価値説(搾取利子説)は現在価値と将来価値の概念を入れて吟味しないといけないとのご説明に目から鱗が落ちた気分になりました。根岸先生はそこまで敷衍されてはいなかったのですが、マルクスならデフレとインフレをどう説明したのだろうと、俄然興味が出てきて鉛筆で数字を書き散らしてみました。実に驚きましたが、マルクス理論で完全に現在のデフレが経済に及ぼす悪影響が説明でき、その対策まで提言できることがわかったのです。これはノーベル賞ものですな。

まず基本前提を根岸先生が提示された一番単純なモデルとします。つまり労働力と小麦だけからなる経済を想定。100単位の小麦を前貸しして労働力と交換しそれを小麦生産に投入すれば、1年後に200単位の小麦が生産できるものとします。前貸しした資本100単位を回収した後に資本家の手元には剰余生産物100単位が残ります。資本100単位に対して剰余価値が100単位ですから、剰余価値率(搾取率)は100%、利潤率も100%となります。

勿論マルクスは実質ベースで議論しているので価格変動は考えていません。そこで一年後には生産物(小麦)の価値は半分となると仮定しましょう。一年後に生産できる小麦200単位の現在価値は100単位ということになります。労働者に払った100単位の前貸し分を回収すると剰余価値率(搾取率)はゼロ%になってしまいます。資本家は資本を生産活動に投下することは止めてタンス預金に走ることとなり、経済活動は当然停滞します。これがデフレです。

逆に一年後に生産物(小麦)の価値が2倍となると仮定しましょう。一年後の生産物の現在価値は400単位。労働者に払った前貸し分100単位を回収した後の剰余価値は300単位。剰余価値率(搾取率)は300%になります。当然資本家はあらん限りの資本を生産活動に投入し儲けようとしますので経済は活性化します。これがインフレです。

本来価格とは貨幣と商品の相対比率でしかなく価格変動は実体経済に対してニュートラルなはずですが、どうしてこのようなことになってしまうのか。これは、すでに慧眼の持ち主はお気づきだと思いますが、上記いずれの場合も労働者に対して支払う前貸し分が同じ100単位ということです。賃金水準には下方硬直性があり、さらに賃金水準の変動は物価変動に対して遅行しますのでどうしてもこういうことになるのです。親父が言った「デフレは月給取りに有利、インフレは商売人に有利」という警句がマルクスによって裏付けられた感じです。やはり親父は偉かった。

ここまで見てくると、現在日本を覆っているデフレの悪影響をいかにして消滅させうるか、政策インプリケーションが明らかになってきます。それは賃金水準を物価水準に速やかに柔軟に合致させることなのです。そうすることによって剰余価値率は昔の正常な水準に戻ることになり投資活動は再開されるのです。この柔軟な賃金決定システムはインフレ状況下においても剰余価値率を一定に抑えますのでバブルの発生も未然に防ぎます。

上記のモデルは単純モデルで小麦の生産しか考えていませんが、現実に日本経済を一つの産業として考えた場合、低生産性部門への過剰報酬が上記のデフレ下における小麦労働者への過剰支払いと同じ悪影響を経済にもたらしていることが分かるでしょう。生産性に応じて公平に配分することがきわめて重要なのです。それを可能にするシステム作り、これが構造改革です。マルクス理論に基づいて社会作りをしたソ連共産党は「働かざるもの食うべからず」と言いました。「生産性に応じて賃金を払う」と言う意味で、マルクス理論に乗っ取った正しい政策です。いまの日本に必要なのはこういう「骨太の」経済政策なのです。

マルクスは常に新しい!

2002年9月25日水曜日

父のこと

2002.9.25〔旧HPに掲載〕

父のこと

亡くなった父、橋本幸次は、明治41年9月25日、富山県高岡の農家に生まれた。子供が多く生活は苦しかったようだ。ちなみに富山の米騒動は父が10歳の時に起こっている。大正12年14歳で上阪し洋服屋の丁稚奉公を始める。技術を身につけ大正14年に16歳で百貨店大丸に裁断士として就職。初任給は巡査の初任給は45円という時代に60円だった。数年勤務した後、独立し洋服店を開業。自転車で注文を取りに回る営業で徐々に商売を大きくし、戦後の混乱期も乗り切る。洋服小売では利潤がとれないと昭和26年には洋服小売店の上流部門である服地卸業に進出し、さらに昭和36年に関西ではある程度の名前が知られた食品会社の経営権を取得するなど、事業の幅を一貫して広げていった。97年に88歳で亡くなったが、その前日まで現役を引かず会社に車椅子で出勤していた。個性の強い人間で、独特の人生観を持っていた。時として周りの人間に辛く当たることがあった。

ぼくは五人兄姉の末っ子として生まれたので、年齢的にも父親とはとても距離があり、あまり一緒に遊んで貰った記憶はない。一度天王寺の動物園に連れって行って貰ったくらいだろうか。でも父は子供たちにはとても気にかけていたように思う。自分に教育がなく苦労したことから5人の子供はどうしても全員大学にやると頑張った。あるとき景気が悪く手形の期限延長を頼まざるをえなかったとき、先方はうちの子供は大学にもやっていないのにお宅は女の子まで大学にやって良い身分だと嫌みを言った。父は即座に「だったらその代わり私がタバコをやめる」と言って禁煙の誓いを立て、以来死ぬまでタバコは吸わなかった。子供の入学試験には仕事をさしおいて付き添っていった。自分が付き添うと試験に通るというジンクスを信じていたからである。ぼくの大学受験のときすら、来ないとの約束にかかわらず、試験の日ボタ餅を持ってやってきた。

ぼくは父親とは幸いにして比較的いい関係にあった。それは年齢的に離れていたことと、一緒に過ごす期間が短かったから故に、適当な距離を置いた関係であったからかも知れない。中学高校は受験校だったのでほとんど部屋にこもりっきりだったし、大学では親元を離れて下宿した。家業とは関係のない民間会社に就職し、それも東京だったし、海外も長かった。年に一二度しか顔を会わさない状況が何十年も続いていた。個性の強い人だったから、いつも一緒に居る家族はたいへんだっただろうが、その点ぼくは恵まれていると思っていた。

でも人生の節目節目で父親の力にすがった。絶体絶命の状況に追いつめられたこともあるが、父は何も言わず精神的、経済的に支援してくれた。普段は憎まれ口ばかり叩いてとりつく島もないような父親だったが、いざというときは積極的に救いの手をさしのべてくれたのだった。おかげでまだぼくはなんとか生きている。

亡くなる二ヶ月ほど前、実家に帰って父の顔を見た。ほとんどものを食べない状態だったが、昔と変わらない長舌ぶりだった。さすがに辟易してお暇を取ろうとしたら、父の口から「おとんぼ」という言葉が出てきた。はじめて聞く言葉だったが、富山の方言で「末っ子」という意味で、「おとんぼ」は家族の中で最後に生まれてきた子供であり、よって親と一緒にいる時間が一番短く、親の愛情を最も少なくしか受けられない子供ということで、可哀想な存在と言うことらしい。「おまえはおとんぼだから可哀想だ」と玄関に出ようとするぼくに向かって、繰り返し、ぼくを見るために椅子から反り返りながら言った。ぼくにとってそれが父の最後の言葉だった。

ほとんど実家に寄りつかなかったぼくの人生だったが、父は、ぼくのそういう生き方を哀み、同時に自分の人生をそれに投影していたのかも知れない。思えばぼくの人生も14歳にして家を出された父の人生に似ているともいえる。彼もずっと寂しかったのだろうと思う。以来、父のこの最後の言葉を思い出すことが多い。もっといろいろ父と話すことがあったような気がしてならない。

2002年9月20日金曜日

〔再録〕荷風碑の誤植の責任者は誰か?


  荷風塾学校通信No7『荷風の誤植』    余丁町散人、2002.9.20
「荷風」と名が付く本で出れば必ず買うことにしていますが、今回出された矢野誠一のエッセイ集『荷風の誤植』(2002.8.20発行)も早速購入。また新たな発見をしました。三ノ輪の浄閑寺の荷風碑に彫られている荷風の詩の「ミスプリント」についてです。有名な詩なのであえて全文引用します(テキストは岩波の最新版「荷風全集」)。

<引用>
震災

今の世のわかき人々/われにな問ひそ今の世と/また来る時代の芸術を。/われは明治の児ならずや。/その文化歴史となりて葬られし時/わが青春の夢もまた消えにけり。/團菊はしをれて楼痴は散りにき。/一葉は落ちて紅葉は枯れ/緑雨の声も亦絶えたりき。/圓朝も去れり紫蝶も去れり。/わが感激の泉とくに枯れたり。/われは明治の児なりけり。/或年大地俄にゆらめき/火は都を焼きぬ。/柳村先生既になく/鴎外漁史も亦姿をかくしぬ。/江戸文化の名残煙となりぬ。/明治の文化また灰となりぬ。/今の世のわかき人々/我にな語りそ今の世と/また来む時代の芸術を。/くもりし眼鏡をふくとても/われ今何をか見得べき。/われは明治の児ならずや。/去りし明治の世の児ならずや。
<引用終わり>

問題は、この詩の中で「圓朝も去れり紫蝶も去れり」とある「紫蝶」とは誰のことかと言うことです。これについて『荷風の誤植』で矢野誠一は「紫蝶」と名乗る人で圓朝と並び称するような人は居なかった。たぶん幕末から明治にかけて人気を博した新内語り富士松「紫朝」の誤植だろうとされているわけですが、その発見の経緯が面白い。実に川本三郎氏がわざわざ矢野誠一に手紙で聞いてきたというのです。

小生がこの「ミスプリント」についてはじめて知ったのは、1999年8月の江戸東京博物館での川本三郎の講演でした。矢野誠一はこの随筆を99年11月に書かれていますのでほぼ同時期ですので、川本氏は矢野誠一に確かめられたあと講演でお話になったものと思われます。一大発見とのことで会場は大いに沸きました。

小生もそうか誰も気がつかなかったのかと面白がっておりましたが、ところがその後、古本屋で買った磯田光一の名著『永井荷風』(昭和54年初版)を読んでいますと、その中で引用されている荷風の「震災」の文章はちゃんと「紫朝」となっていることに気がつきました。あわてて旧版の岩波全集(昭和39年)を見るとそこでも「紫朝」となっているではありませんか。でも最新版の岩波全集では「紫蝶」となっている。なんだか狐につままれたような気分です。

こうなると俄然興味がわいてきますので、いつもは読むことのない「校異表」なぞを引っ張り出して調べますとこういうことのようです。この詩が最初に活字になったのは1946年筑摩書房から出た『来訪者』で、そこには「紫蝶」と誤記されていたものを、中央公論社から出された「荷風全集」(1959年)ではだれかがこのミスプリントに気がつき「紫朝」と直したことがわかりました。その後出版された1964年の岩波版「荷風全集」でも正しい「紫朝」となっています。磯田光一は中央公論社版か岩波版かのどちらかの荷風全集から引用したので当然「紫朝」となるわけです。ところが岩波が1994年に最新版の荷風全集を出すに当たって、厳密に荷風の自筆原稿を確かめるとそこには「紫蝶」と書いてあった。あくまでも原本に忠実に記載するという編集方針も元に、あえて間違った「紫蝶」と元に戻したと言うことのようです。

荷風碑が建ったのは昭和34年に荷風が死んですぐあとだったと思いますので石碑には『来訪者』に書いてあるままを彫ったものでしょう。間違いに気がついて直した中央公論社の編集者は凄いと感心いたしました。さらに荷風の書き間違いをあえて元に戻してそのまま印刷するという岩波の編集方針にも敬服いたしました。でもそのおかげでいろんな混乱が起きたことも事実のようです。

何を細かいことを騒いでいるのだとおっしゃるかも知れませんが、荷風ファンというものはこのようなどうでもいいような細かいことに一喜一憂して大はしゃぎする人々なのです。このあたりの愉しみに淫することができないようでは、なかなか荷風ファンとは言えませんぞ。でもご安心ください。荷風が好きな人はだんだんそうなるのです。この駄文に興味を持ってここまで読んでくださったあなたも、そろそろそうなりかけている・・・。

最近小生の手持ちCDを整理していると新内のCDが出てきました。蘭蝶という色男に花魁が惚れるという「蘭蝶」という新内です。荷風はきっと紫朝が語るこの新内「蘭蝶」が大好きだったので、つい紫朝を「紫蝶」と誤記してしまったのではないかというのが小生の推理ですが、はたしてどうでしょうか。


追記)ここまで書いてきて、念のために川本三郎『荷風好日』(2002年2月)を読むと、川本三郎は後日、紫朝は若いときに紫蝶と名乗っていた時期があったという新たな発見をしたとの追記がありました(森まゆみ『長生きも芸のうちー岡本文弥百歳』に書いたあった由)。こうなってくると中央公論社の編集者が余計なことをしたと言うことになる。わかったと思ったらまた迷路にはまりこんでしまいました。荷風をめぐる事実関係は複雑怪奇です。奥が深いのう。











2002年9月15日日曜日

「長生きリスク」にどう対処するか

2002.9.15


今日は敬老の日。「多年にわたり社会につくしてきた老人を敬愛し、長寿を祝う国民の祝日」とのことです。お年寄りにはぜひ長生きして貰いたいものだと思います。でもそんなことを言う散人自身も、いつしかもう年寄りと呼ばれてもおかしくない年頃です。人生の現実の厳しさを前にして、そろそろ老後対策も考えなければならないようです。まず一番大切なことは老後を支える経済的基盤でしょう。いったい幾らあれば大丈夫なのでしょうか。

その点に関し「 老後のキャッシュフローを考える 」というホームページでとても参考になる解説があるというので早速読んでみました。執筆者は大手企業を定年退職され方ですが、具体的な例を挙げてとても説得力に富んだ計算を提示されています。正直言って驚きました。結論として年収1000万円以上の収入があった人が、生活程度をそれほど落とさずに、ゆとりある老後を過ごすには「公的年金以外に退職時に1億円必要」ということなのです。おまけにこの計算は平均寿命(男性は81歳)で死んでしまうことを前提としています。

今月厚生労働省が発表した全国高齢者名簿によると今月末までに百歳以上となる高齢者が1万7000人に達するとのこと。32年連続で過去最高を更新、どんどん長寿化の傾向を示しているとのことです。81歳まで生きることが前提で1億円ならば、100歳まで生きるなら2億円、120歳までなら3億円となります。たとえ退職時に1億円の蓄えがあるという幸運な人であっても、もし不運にも長生きしてしまったら、81歳以降はわずかな公的年金だけに頼る「惨めな生活」を送らねばならないと言うこと。これを「長生きリスク」といわずしてなんと呼べばいいのでしょうか。暗澹たる気持ちにさせられます。
もちろん計算の前提にはいろいろ議論があるかと思います。でも言えることはちょっとたいへんな事態と言うこと。年金システムは破綻仕掛けており、今更政府が何かしてくれることは期待できない。自助努力しかないでしょう。個人が出来る対応策とは、お金を貯めるというのは勿論でしょうが、他にどんなものがあるのでしょうか。基本的に二つしかないと思います。

一つは、定年後も収入を求め出来るだけ長く働き続けることです。ハッピー・リタイアメントは諦めなければなりませんが、たとえ収入が少ない仕事であってもトータル・キャッシュフローでは大きな違いとなって現れてきます。でも管理職を長く続けてきた人に出来る仕事と言えば、やはり管理的な仕事。老害をまき散らさないかが心配です。本人がフロアの仕事でもかまわないといって単純労働に従事するにしても、今度は就業が難しい若年層の仕事を奪うことにも繋がりかねません。 ただでさえ日本の高齢者は働き者で、高齢者の就業率はヨーロッパ諸国のそれの二倍にも達しています。これ以上高齢者の就業率が上がることは(たとえボランティアの仕事であるにせよ)決して社会的によい傾向ではありません。戦後のパージで企業と役所から年輩者がいなくなって日本経済はどれほど活性化したかは、源氏鶏太の『三等重役』を読めばわかります。それと逆のことが起きる。

もう一つは、ドラスティックな対応であるのですが、なにをもって「ゆとりのある」生活であるかとする基準を変えることです。つまりお金がなくても幸せに感じるように自分を訓練すること。若いときのように物質的な享楽に人生の幸せを求めることはそろそろ卒業し、むしろそれを軽蔑し、物質的なものでなく精神的なものに人生の幸せを求める生き方を目指すべきでしょう(開き直りですね)。これは仏教でいう悟りです。お釈迦様はやはり偉かった。

しかしお金を使わずに人生を楽しむには、それなりの基礎が必要です。スポーツにしても全くの下手なプレーヤーであれば本人も面白くないでしょうし、本を読むにしてもベースとなる教養がなければ楽しめません。お金を使わないでも幸福感を味わうということは、実は高等テクニックであり、基盤となるその人の教養次第です。それには長い準備期間が必要です。散人も、常々もっと若いうちからこの努力をしておけばよかったと反省しています。ルイ・ヴィトン店に群がる若者を見るにつけ、貧しさの反動としての顕示的消費フィーバーが日本でまだまだ続いていると感じます。そろそろ卒業してもいい時期じゃないかな。若い世代にとって、これが一番の老後対策、「長生きリスク」への対処法かもしれない。

高齢者が消費にお金を使わないのが経済低迷の原因とする俗説がありますが、気にすることはありません。日本経済にいま一番必要なものは一時的に総需要を押し上げるだけの消費需要ではなく、落ちてしまった経済の生産性を上げるための設備投資です。高齢者の金融資産という原資があってはじめて設備投資が可能になります。日本経済の将来のためにも、高齢者は過剰な消費に走ってはならないのです。自信を持ってお金は使わず質実剛健で行きましょう。

2002年8月29日木曜日

田端強君のこと

2002.8.29


田端強君のこと


歳をとるにつれ、古くからの友達が抜け落ちるように逝ってしまうことは悲しい。「長生きして良かったことは」と聞かれたさる高齢の財界人が「厭な奴が全部先に死んでしまったことだよ」と寂しそうに答えたという話を聞いたことがあるが、この世の中には厭な奴より良い奴のほうが数としては多いわけで、またたとえ厭な奴であってもその人との関わり合いとは自分の人生の確かな一部であったわけで、人は歳をとることにより必然的に悲しい思いを積み重ねざるをえない。特に小さいときからの友人を失うことはとてもつらい。田端強もそのひとりであった。

彼と知り合ったのは中学校の時だったと思う。机が前後して接していたので自ずと言葉を交わすようになったが、通学ルートが違うので最初は友達と言うほどでもなかった。当時の灘中生の通学経路は、3割が阪急岡本駅を利用、3割が国電の住吉駅、また3割が阪神の魚崎駅利用で、残る1割が阪神国道を走る国道電車と大ざっぱに分かれていて、学校から帰る途中で同じ電車を利用する者同士で寄り道したりして親しくなることが多かったのだが、彼と杉山は阪急組、僕は国道電車組だったのであまり顔を合わせることがなかったのだ。親しくなったのは高校になってから杉山和彦を介してのことだったと思う。三人でよく遊んだ。

田端は裕福な家庭の長男で父親の愛情をふんだんに受けて育っていた。夏の暑いときは当時は普通の人は見たこともなかったクーラーのある応接間で勉強させて貰っていたし、夏休みは勉強と称して涼しい山の上の六甲ホテルでひとりで過ごしていた。またお父さんが香港で買ってきたというローレックスを腕にして、家のセドリックを自由に乗り回していた(昔は16歳で運転免許が取れた)。そんな高校生はさすがの灘高にも少なく、地味な家庭に育った僕なんかにはものすごく格好良く見えた。畏敬さえ感じた。でも彼はそれをことさら自慢するでなく、また恥ずかしがるのでもなく、ごく自然に振る舞っていた。

彼と僕は京都大学に進学した。同級生は東京の大学に進む者が多くに行く、京都に行ったのは少数派だった。特に僕が入った経済学部には灘高出身者はひとりも居らず、寂しかったので彼の百万遍の下宿によく泊まりに行った。彼は勉強が厳しい工学部に入学したので「経済学部のぼんくらとは一緒に遊んでられない、じゃまするな」と時々追い返されたが、それでも彼の下宿の大きなベッドによく一緒に寝た。もちろん変な関係ではなく二人ともまだ子供だったのである。でも彼の方が成熟が確実に進んでいて、先輩としていろんなことを教えてくれた。酒の飲み方とか、服装の選び方とか、女性とのつきあい方とか。初めて女子大生とグループ・デイトをしたのも彼と一緒だった。体育会ヨット部に入部できたのも彼に付いていったからだ。受験勉強から解放されて彼を師としての京都での自由な生活は、本当に素晴らしく、数限りない楽しいことを一緒に経験した。

ところが、彼はもともとからだが丈夫じゃなく肝臓に問題を抱えていた。やがて彼の宿痾がぶり返すことになる。大学院に進む直前に彼は入院することとなった。一時は処方された強い薬の副作用で髪の毛が抜け落ちるということもあり悲惨だった。しかし、のちに田端夫人となる鈴恵嬢の献身的な愛情を受けて彼は再起する。

この間、深く考えることがあったのだろう。その時以来、彼はそれまでのどちらかといえばプレイボーイ的な生活とはきっぱり別れを告げ、徹底して真面目な生活をはじめた。長男であるにもかかわらず家業を継ぐことをやめ学者になる道を選ぶ。一転してそれまでの物質的なライフスタイルを、背伸びした格好が悪い贅沢として軽蔑するようになった。その変身ぶりにはみんな驚いた。

僕は大学を出て就職し、しばらくして海外に行ってしまったので、田端とだんだん縁遠くなった。海外から帰っても東京に住むことになり、彼とはなかなか会う機会もなかった。田端にしてみれば僕などはとっくの昔に卒業した軽薄な時代の遊び友達という分類に入っていたのかもしれない。彼が亡くなる前の数年間は年賀状も来なかった。あとで田端夫人に聞くと、晩年は体調が悪い状態が続き、健康に生活しているむかしの友達にどう近況を伝えていいか判らず、本人はとても辛そうだったとのことだった。

1991年8月、突然彼が亡くなったとの知らせを受けた。お葬式で彼の長男にお目にかかったが、彼と瓜二つだった。一度夫人と一緒に三人でゆっくりお話し出来ればと思ったが、その機会もないまま今に至っている。

僕も歳をとった。そのなかで田端強はいつまでも若く、人生で一番うきうきしていた時代の象徴として、僕の心に深く残っている。何でもかんでも彼のまねをした当時を懐かしく思い出す。最近、僕も今まで馬鹿のように熱中していた消費型のライフスタイルをうざく感じるようになり、それから距離を置くようになってきている。これは田端強が数十年前にすでに悟っていた境地に近いのかもしれない。彼はいつになっても僕のライフスタイルの先達なのだと思う。



〔旧HP閉鎖により再録〕

2002年8月19日月曜日

夏のお便り


夏のお便り
                 ..................
余丁町散人

今年は異常に暑い日が続くと思っていたら、今日は雨が降って急に気温が下がりました。秋にならないうちに急いで夏のお便りをいたします。

家内は6月、7月とフランスに帰っていました。家族でブルターニュの夏の家で過ごし、涼しくてたいへん快適だったそうです。この夏の家は家内の亡くなったお父さんが若い頃海沿いの農家を買ったもの。石造りの壁は厚さが1メートルはあろうという古い建物で浜には船もおけます。ヨーロッパの生活には、この石壁のような蓄積の厚みがあり、羨ましい限りです。

散人は東京に残って猫と庭の世話をしておりました。世話の甲斐があって、今年はモモがたくさん実をつけました。砂糖煮にして食べています。

モモが実をつけました

昼寝するピカチュウ

猫を飼っていると猫がだんだん主人に似てくるのか(主人が猫に似てくるのか)、うちのピカチュウは昼寝をするとき枕を使うようになりました。時々夢を見ているのか、寝ながら尻尾を振ったり猫キックをしたりします。朝も以前は早起きだったのですが最近は8時頃まで朝寝坊をします。

暁は昨年文学部フランス文学科を卒業しコンピュータ・グラフィックの専門学校で勉強していましたが、今年ようやくソフト会社にCGデザイナーとして就職が内定しました。来年の4月から社会人となります。若年層の就職がなかなか難しい状況下、ほっとしております。就職の作品選考用に暁が作ったCGをHPにアップしておきました。下のリンクです。

***
新しいマック

散人のマックを新しい iMac に換えました。古い初代 iMac をだましだまし使ってきたものですが、HPを作るようになるととても旧型マックでは対応できないことが分かりました。OSが全く新しくなっており、驚きました。昔々、初代の 512k マックを買ったときの感動に似ています。新しいエクセルのデーターベース機能にも感動。文学作品の索引作りに挑戦しようかと考えています。現在荷風の参考書の整理とか、團伊玖磨の『パイプのけむり』全巻のインデックス作りを始めています。こんな事をしていますと時間は幾らあっても足りません。

景気がいつまでたっても良くならないのでいささか憂鬱です。北風の中で外套が飛ばされないように身を小さくする旅人のように、いつかは暖かい太陽がでてくるものと期待して、それまでは地味に行こうかと思っています。

2002年8月14日水曜日

「やっぱり」連発はやっぱり駄目

2002.8.14


JA全中の宮田勇新会長のテレビインタビューをNHKニュースで見ました。日本の農業の今後についていろいろ語っておられましたが、むしろ面白かったのは、その内容よりこの方のお話の仕方。お口癖なんでしょうが「やっぱり」という言葉を盛んにお使いになる。曰く「やっぱり」食べ物は安全が第一だし・・・、「やっぱり」環境保全に配慮しなければ・・・、「やっぱり」農業が心の安らぎをもたらすということも考えて・・・、「やっぱり」主食は自給でなければならないし・・・エトセトラ、エトセトラ。「やっぱり」を短い3分ぐらいの間に30回ぐらいはお使いになってました(6秒に一回ですかね、計算すると)。

この「やっぱり」が気になって、テレビを見ている間、お話しの方はそっちのけで、もしこれを外国語に通訳しろと言われたらどう訳せばいいのだと考えていました。強いて言えば英語の場合 after all なんでしょうが、今ひとつフィットしない。すくなくとも after all は3分間に30回も使う言葉ではない。どうもこの方はこの「やっぱり」に、英語の after all の前にあるべき縷々とした議論を排除して、いきなり村落共同体に生きる人間の本能みたいなものに訴えるキーワード的意味合いを持たせているようなのです。「みんなが建前は別にして本音で期待しているとおりに」というような感じ。JA内部ではこれが説得力を持つのでしょうが(だから会長になられたのでしょうが)アウトサイダーにはとてつもなく違和感がありました。

企業でも社会でも、この「やっぱり」がはびこると改革は出来ないように思います。「やっぱり」日本式経営の良さも考えないと・・・、「やっぱり」公共事業の社会的役割も重要であって・・・、「やっぱり」郵便局の果たしてきた役割を考えると・・・、「やっぱり」間接金融主体の従来方式の良さもあって・・・、「やっぱり」日本の国際的な責任を考えると・・・「やっぱり」受験教育制度にもそれなりのいいところもあるし・・・エトセトラ・エトセトラ。すべて既得権益の擁護のために手垢の付くほど頻繁に使われてきた言葉ではないでしょうか。

はなしを農業に戻しますが、農業とは人間の歴史はじまって以来、もっとも基本的な産業でありました。産業である以上、人は生きるか死ぬかの覚悟で、その時代の最先端の技術を活用し効率性を追求することで生産活動に励んできました。広大な北海道の牧場もヨーロッパの緑の農地も、すべて人間が必死になって原始林を切り開いて「環境を変化させながら」造ってきたものじゃないですか。農業は環境に貢献するから非効率性が許されると言うことでは決してないのです。

全国各地の農村の生活風景を紹介するNHKの「ひるどき日本列島」をみていると、日本の農村では、本当にみんなが一緒に仲良く楽しく「園芸農業」をしているなあと実感します。趣味でやるぶんには結構なのですが、日本の企業では当たり前の国際競争のなかで命がけで競争にうち勝つぞと言う気迫が感じられないように見えます。

「やっぱり」を連発していると、やっぱり駄目になります。


2002年8月6日火曜日

〔再録〕荷風とお金と物価の悲劇

「荷風塾」(永井荷風ファンクラブ)学校通信 No.6
             荷風とお金と物価の悲劇

2002.8.6 

むかしの小説などを読むとき、お金の単位に苦労することがよくあります。「○○円だ」と書いてあっても、それがどういう意味を持つのか、高いのか安いのかよくわからない。特に荷風の小説にはお金が頻繁に登場します。そこで明治・大正・昭和の各年代を通じて貨幣価値がどう変化したのかを調べ、それを荷風の年表に組みこんでみました。さらに、毎年、荷風が稼いだお金、使ったお金、結果として金融資産残高はどう推移したのかなども表計算ソフトを使い大胆にも推定してみました。その一部が下のグラフです。とても面白いことが分かりました。



推計方法について

当時の物価の推計ですが、卸売物価指数については日銀の戦前基準の長期統計があり信頼できそうです。消費者物価については明治まではさかのぼれませんが、足らない部分は醤油やお米の値段で代用させ一応の数字が作れます。これで当時の価格水準は推測できるわけですが、その価格が「当時の人々にとって」どういう風に実感されたかは、当時の賃金水準を考慮する必要があります。結局、消費者物価基準、卸売物価基準、賃金基準の三つの基準で「一円の値打ち」を計算いたしました。この三つの数字を参考にしながら当時の文章を読むと、ぐっとわかりやすくなるようです(自画自賛)。

荷風の金銭的な収支状況については断片的ではありますが、たくさんの数字が残されています。税務署による所得金額の認定とか、敗戦直後の財産税の計算とか、不動産の売買金額とか諸々の数字が日乗に書かれています。吉野俊彦氏が『断腸亭の経済学』という面白い本でそういう部分をたくさん抜き出して居られますので、活用させていただきました。それらの要所要所の数字を押さえて、それが実現するような年々のキャッシュフローを推計すればいいわけです。となるとエクセル表計算ソフトの出番です。段階的接近を繰り返し、なんとか矛盾がないところまでつじつまを合わせました。計算表(エクセルファイル)は公開フォルダーに入れてありますので興味のある方はダウンロードしてください。

これらの数字からいろんな事が言えると思いますが、私にとって印象的だったのは、荷風は大正年代の末から(円本ブームに乗じて)ほぼ右肩上がりに自分の金融資産を増やし続けたにもかかわらず、それが物価水準とか賃金水準といういわゆる外的尺度で測ると、きわめてドラスティックな上下変動を示していることです。上に示したグラフでもおわかりいただけますが、絶対金額では戦前ほぼ安定していた荷風の資産残高は、昭和の初めのデフレ状況下では大きく購買力を上げ、荷風はきわめてお金持ちになったように感じたと思われます。でも以後経済はインフレに転じ年々財産の(物価賃金比較での)減少が続き窮乏感が強まります。敗戦直後、戦時中に書きためていた作品を発表しふたたび巨額の現金を手に入れるのですが、預金封鎖とインフレでまたもや(物価賃金水準からみて)極端な貧乏になるという具合です。

これは個人ではコントロール出来ないまったくの外部環境によるもので、金融資産だけが頼りの老人荷風にとっては精神的にとても厳しいものがあったと思われます。4回にのぼる空襲による罹災以上に、戦前戦後の経済変動は荷風に大きなストレスを与えたと考えられるのです。その影響が書いた作品にも現れてきているように思います。

文学もエクセルを片手に読むと一段と楽しくなります。

(参)荷風経済年表抄(余丁町散人作成) 

























2002年7月21日日曜日

〔再録〕荷風はやはり背が高かった! 2002.7.21


「荷風塾」学校通信 No5
School News
2002.7.21              余丁町散人
新発見
荷風はやはり背が高かった!ちょっとした「大発見」をしました。やはり荷風は背が高かったのです。下の写真がその証拠です。どうしてそうなるのか、これから説明します。


(写真をクリックすると大きくなります)






今までの定説
 松本哉氏による身長推計松本哉氏が荷風の身長推計を発表されるまでは、荷風は背が高いと考えられてきました。『日和下駄』の冒頭の「人並みはづれて丈が高いわたしは・・・」という印象的な文章が人々の頭のなかに「背が高い荷風」というイメージを定着させてきたのです。俗世間を一段低く見て辛辣な批判を続けた孤高の偏屈男であったことも「背が高い荷風」というイメージづくりを手伝ったものと思われます。わたしもそういう風に考えておりました。

ところが松本哉氏はその著『永井荷風の東京空間』のなかでその通説を真っ向から否定されました。現存する荷風の写真から(三ノ輪の浄閑寺の門に立つ荷風の写真)から荷風の身長は165センチと推計されたのです。みんなとてもガッカリしました。

ところが反論しようにも、松本哉氏はれっきとした証拠写真をお持ちですから、反論材料がなかった。みんな悔しい思いをしたと思います。でもご安心ください。新しい反論材料が出来たのです。
関口水神社の銀杏と鳥居
"Smoking gun" (動かぬ証拠)
ページの一番左上にある小さな写真をクリックしてみてください。これは荷風が昭和20年4月10日に描いたスケッチです。当時の荷風は偏奇館を焼け出され中野に移っていたのですが、4月10日、関口から早稲田を散歩します。水神社の境内から早稲田の町並みを描いたのがこのスケッチです。

小生はこのスケッチが好きで、一度同じ風景を写真に撮ってみたいと思い、最近水神社に行って来ました。そこで荷風のスケッチ通りの写真を撮ったのが左の写真です。ほとんど同じ風景です。

ところがこの写真を撮るのに意外にたいへん苦労しました。どうしても荷風のスケッチ通りにはならないのです。銀杏を写すと鳥居が見えない。逆に鳥居を写すと銀杏が入らない。鳥居の位置が低すぎるので相当高い位置からでないと荷風のスケッチ通りの眺めとはならないのです。

そこで神社の前にある踏み石に登り、デジカメを頭の上に高く掲げながら撮影したのが左の写真なのです。わたしの身長は175センチ。だから荷風が左上のスケッチが描けるためには荷風はわたしより、少なくとも5-10センチは、背が高くなければいけない計算です。

やっぱり荷風は背が高かったのです。大満足です。

ちなみに松本哉氏の写真推計ですが、同氏がお使いになった写真では荷風は門からちょっとだけ内側に立っているように見えます。広角レンズの場合、わずかな距離差で大きさが違ってきますので、実際より低く見えてしまう可能性が強いと思います。

半藤一利氏は昭和34年荷風の死に際し真っ先に駆けつけた人ですが、「市川署が葬儀屋に手配して届けさせた2500円の棺」は荷風には小さすぎて「無理矢理足を曲げて棺に入れた」と生々しく証言されています(『荷風さんと昭和を歩く』)。

われらが「大荷風」はやはり背の高さでも「大荷風」であったのです。

2002年7月8日月曜日

杉山和彦君のこと

2002.7.8

杉山和彦君のこと

杉山が死んでからちょうど4年になる。神戸港の埠頭での無惨な最期だった。理由はわかっていない。

杉山と友達になったのは、多分中学3年生か高校一年生の頃だろう。学校からのスキーに行くとき急行「ちくま」で同じところに座った。彼と一緒に座れて良かったと漠然と感じたことを覚えている。癖のある連中が多い学校だったが、杉山は芦屋のぼんぼんらしく品がよくって社交的だったから。スキー場でリフトから、彼がなんでもない緩やかな斜面でああ向けざまにひっくり返ったシーンも覚えているから、風景からして中学校のころ毎年行っていた野沢温泉ではなく、妙高か赤倉だったと思う。だったら高校一年生だったのだろう。

彼はぼくのことを「スマイリー」とあだ名を付けた。当時聴衆の方を向いてバンドを指揮することで人気があったスマイリー小原に額が似ているとの理由。カタカナのあだ名はちょっと格好が良くうれしかった。彼の交友範囲はいわゆる遊び人タイプの阪神間のぼんぼん連中であり、おかげでそれまでは遠くで見ているだけだったそういう連中とのつきあいも出来た。亡くなった田端強もその一人だった。田端は16歳の時に運転免許を取っていたので彼の運転で三人でよく遊び回った。車はそれぞれの親の車を順番に無断拝借するのだが、出来たばかりの名神高速をぶんぶん飛ばしたり、六甲山に上ったり、子供だったからそんなことで楽しかった。三宮近辺の、当時は不良のたまり場とされていたジャズ喫茶に杉山とよく行った。ふたりともウクレレを弾く程度で楽器は駄目だったが、不良の振りをするのが好きだったのだ。

大学になると杉山は慶応に行き、ぼくと田端は京都だったので別になってしまったが、夏休みなどは一緒に遊んだ。正月にいきなりぶらっと来て二人でドライブに出かけたのはいいけれど、西国街道を北に進むうちに調子に乗って「ぶんぶん」進みついに舞鶴まで行ってしまった。ロシアの貨物船が日本海に浮かんでいるのを見てさすがに遠くまで来たと心細くなり、そうそうに帰路に就いたが、帰りの雪道でパンク。杉山のお母さんの車を正月に持ち出していたので後で大目玉を食ったこともあった。

大学時代、杉山は原宿にアパートを借りていた。皇家飯店の横を入ったあたりだったが、当時から原宿は遊びスポットとして注目を浴びていた場所。住むところといいいでたちといい杉山はいっぱしの「遊び人」で、いろいろその方面の蘊蓄を聞かされたが、不思議なことに彼と女性を交えて遊んだ記憶はない。口や格好とは別に、女性にはシャイな人間だったと思う。卒業論文も見せてもらったが立派なものだった。就職が決まるとすぐ「財界」とかの経営雑誌を読み始め、財界内情についてとかいろいろ彼の「講義」を聴かされた。ウブで世間知らずのぼくにとって彼は「人生の先輩」であった。

卒業してから彼は化学会社に就職したが、しばらくして辞め親戚筋の老舗企業に移った。その会社の社長の娘と結婚したので、やがては跡を継ぐとの含みとのことだった。だが会社は奈良にあったので彼も奈良に転居し、田端は一転して真面目な大学の先生になったり、ぼくは外地に行ったりして、それまでのあそび仲間と頻繁につきあうことが少なくなった。葬式の時に仲間の一人が「杉山も可哀想に、奈良みたいなところに行ったから駄目なんだ。阪神間に居ればこんな事にならなかった」とぽつりと漏らした。

ぼくが外地から帰ってきて、ある理由で実家に出入りできなかったとき、「困っているときこそ友達だろう」と言って杉山はぼくと家内の関西でのロジスティックを世話してくれた。彼の会社は全国に工場を持っていたので東京には頻繁に出張してきた。その際よくぼくのマンションに泊まった。半年に一度ぐらいは会っていたのだろうか。いつも変わらない馬鹿話と自慢話をするなかであったが、ただ彼が社長を引き継いでからは、ちょっと座ったような目つきをしていることがあり、社長業のストレスの強さをかいま見る思いもした。

彼が亡くなる数ヶ月前、彼と神楽坂で飲んだ。ちょうどぼくが個人的トラブルを抱えていたときでつい愚痴っぽくなったら、杉山は急に反対サイドに立って感情的に説教をはじめた。腹を立てたぼくが「そんなこと言うやつは友達じゃない」といってしまい彼は一転して如才なく話題を変えたが、妙に気になった出来事だった。ぼくが抱えていた問題と同じ種類の問題を彼も抱えているのだと第六感で感じた。

2-3ヶ月たって彼から電子メールでぼくの書いた文章に対する感想を寄越してきた。誉めてくれていたのだが、いままで無かったことであり珍しいことだと思った。へんに真面目くさった文章でありこれも奇異に感じた。それから一ヶ月ちょっとして彼は死んでしまった。

困ったときこその友達だろうに! 最後まで弱みを見せなかった杉山と役に立てなかった自分が腹立たしく無念である。7月8日夜中、彼は車を出して、自宅のある奈良から楽しい子供時代を過ごした神戸まで彷徨ってきたという。そのとき彼の頭のなかには何があったのだろうか。



〔旧HP閉鎖により再録〕

2002年7月2日火曜日

ワールドカップ雑感(日韓関係)

2002.7.2


スポーツ観戦はそれほど趣味ではないんですが、さすがにワールドカップ期間中はテレビを見ることが多かったです。日本が勝つと大興奮。負けてしまうと悔しかった。でも同じ開催国である韓国が残っていたから韓国応援に切り替えました。見てみると韓国は強いですね。強豪イタリアには走りまくって辛勝し、優勝候補のスペインまで撃ち破ってしまいました。散人は韓国を応援していたので「非常に結構」だった筈なんですが、正直に認めますと、何か複雑な感情も芽生えてきたのも事実でした。「日本が負けたのに何で韓国だけが勝ち続けるの」とちょっと面白くなかったのです。散人ばかりじゃなく、多くの日本人が同じような感情を持ったといろんなところで聞きました。ちょっと由々しきことかもしれません。

考えますに、これは「嫉妬心」です。「嫉妬」と言えば、女性の方には失礼ですが、古くから女の専売特許みたいに考えられてきました。でも男にも嫉妬心は確実に存在する。もっとも観察してみますに男と女では嫉妬の現れ方がちょっと違うようです。女の場合「いいなあ、あんなのになりたいなあ」と願望の形で現れるのが多いのに対して、男の場合は「なんだ憎たらしい、いい思いをしやがってけしからん」と否定的な形で(足を引っ張るともうしましょうか)表現されることが多いようであります。もちろん女の方にも男のような嫉妬をもたれる場合もあり、逆もまた真の場合もあるのですが、なんかこんな感じがします。

嫉妬心がサッカーとか男女関係に留まっているかぎり大した問題ではないでしょう。けれど昨今この感情が社会問題、国際問題まで広く広がりつつあるような気がします。日本には江戸時代から「等しく貧しきを憂えず」という結果平等思想がありました。「みんな貧しくとも人並みである限り」特に不満はなく、自分の交際範囲や認識範囲が限られた範囲に留まっていた時代には、人々は結構幸せであったと思うのです。でもグローバル化、情報化の時代になるとそう言うわけでもなくなってきます。映画やテレビで見るばかりだった豊かな国の豊かな生活ぶりがより直接的に個人的に認識されるようになり身近なものとなってきています。いままで認識しなかった格差を認識する機会が増えたとも言えるでしょう。ならば「男の嫉妬心」に基づく摩擦は今後どんどん増加すると考えるべきでしょう。昨年の同時国際テロ事件の背景にも、貧しい国の豊かな国に対する嫉妬心があったとの見方があるのです。

また今回サッカーを見て改めて認識したことは、世界的に「ナショナリズム」がまだまだ健在だと言うことです。何十万人が街頭に繰り出し自国のチームを熱狂的に応援する。あのエネルギーに、たかがサッカーといえないような、ある種の不安を感じてしまいました。このナショナリズムが、グローバル化でますます燃え上がりやすくなっている上記の「男の嫉妬」感情と結びつくとどういうことになるのか、戦前のナチズムが裕福なユダヤ人に対する一般人の嫉妬感情から生まれ出たものであることを考えると、日本は明らかに妬まれる側に属している以上、空恐ろしいような気がします。

今回のワールドカップで韓国は、そのチームの体力、技術、それを応援する国民的結束力、全ての面においてその強さを示しました。こういう不安な世界であるからこそ、日本は強い隣人を頼りにするべきです。間違っても敵対側に追いやってはなりません。故高坂正堯が「歴史上のアングロサクソン常勝の秘密は常に強い相手を自分の味方に取り込んだから」と言っていましたが、現在の日本に当てはめて考えると韓国は強くなったからこそ日本の味方として取り込むべしと言うことでしょう。

散人が韓国に初めて旅行したのは1975年でしたが、当時の韓国の貧しさに驚きました。それに比べれば現在は驚くほど豊かな国になっており日本とほとんど変わりません。その意味で「気を遣うことなく話が出来る」相手です。
日本と韓国の二国間の歴史は、支配被支配を繰り返し長年に渡りいがみ合ってきたイギリスとフランスの歴史と似ています。でもいまやイギリスとフランスは、よきライバルではあっても、ほとんど共通の文化と価値観を共有し、お互いに尊敬しあい協力しあう仲となっています。やれば出来るのです。今後の日韓関係が目指すべきものは、現在のイギリスとフランスのような関係に他ならないと感じます。

2002年6月1日土曜日

日本国債格下げに立腹する阿呆どもの見当違い

2002.6.1


ムーディーズが日本国債の格付けを二段階引き下げたことで怒っている連中がいる。塩爺財務大臣は「(格付けは)民間会社が勝手にやっているだけで、だからといって政策の変更はしない」と「不快感」を露骨に示し開き直るし、経済界にもその妥当性を疑う声もある。新しい「A2」という格付けは先進国では最低であることはもちろん、チリ、ボツワナなどよりも低いと云うことで、さすがに誇りを傷つけられたらしく、マスコミ論調もそんな感じだ。日本は世界最大の貯蓄国で世界最大の債権国、経常収支黒字国なのに出稼ぎホステスの親元国やアフリカの最貧国よりランクが低いとはどうしたことだ、これはおかしいというわけ。でもちょっと待ってほしい。

繰り返すまでもないことだが、国債の格付けとは国の経済力の格付けではない。国債が間違いなく償還されるか、デフォルトの可能性があるかどうかという技術的な問題なのでである。現代日本のように、経済は一流でも政府と政治家が三流であれば、経済力が一流であるからこそ余計に(当てに出来る財源があるから余計に)「お上」が発行する約束手形は(国債)は踏み倒されるリスクがあるともいえるのである。

民間企業がビジネスする際に指標とするカントリーリスクのグレード評定にあたっては、その国の基礎的な経済力とともに、その国の政府の「借金はどうしても返す」という意志の強さの程度が重視される。70年代の中南米の経済危機では経済力よりむしろこれが問題となった。今の国債格付けにおいても同じことがいえる。日本政府に本気で借金を返す意志があるのかどうか、国民は確信が持てないのである。

何せ日本政府には数々の借金踏み倒しの前科がある。古くは鎌倉時代の徳政令。鎌倉幕府とご家人の莫大な借金はこれで帳消しにされた。江戸時代の大名も裕福な町人から借りるだけ借りて結局踏み倒した。江戸幕府は貨幣の金含有量を継続的に低下させることで己の借金を踏み倒した。明治政府も借金で戦争をして結局その借金をインフレで帳消しにした。第二次大戦後の預金封鎖やハイパーインフレによる借金の踏み倒し策も悲惨で記憶に新しい。戦時国債を無理矢理買わされた国民のお金は全て紙切れとなったのである。戦後のインフレとバブルも同じような性格がある。80年代のバブルで勝ち逃げをした連中は誰であるのか特定することは難しいが、一つだけ確実にいえることはバブルは日本政府に莫大な税収をもたらしたということ。それも現金でである。日本政府こそが真のバブルゲームの勝ち逃げ成功者、バブルの最大の受益者であった。

財務省は 今回の格下げは日本経済のファンダメンタルを反映していないと反論している。日本には膨大な個人金融資産があるとか、貯蓄投資バランスが巨額の黒字を示しているとか。でもこれは「政府の借金」を返すのに「民間のお金」を当てにしていることを改めて白状しているようなものではないのか。日本の個人金融資産を相続税で召し上げれば借金などすぐ返せると豪語した官僚がいたが、とんでもない話である。グローバル化の時代には国民の金融資産は国際的に移動が可能だ。資本が政府を選べる時代だ。民間は馬鹿政府の尻ぬぐいをするのにもう飽き飽きしている。

日本経済の歴史を少しでも勉強したものは、政府が日本の経済の潜在力が強いから国債の償還は大丈夫だと言うたびに、また日本伝統の「徳政令」か、或いはそのたぐいの国民収奪政策をやるつもりだなと警戒感を深めてしまうのである。今も昔も、日本の政府には「民のものは公のもの」という思いこみがある。いい加減に国民の財産を当てにするのはやめてほしい。日本政府の国債はやっぱりやばいと思う。

2002年5月5日日曜日

受験戦争が構造改革を阻む?





2002.5.5
今日はこどもの日。粽を食べて菖蒲湯だったかしら。あまり昔のことだから忘れてしまった。でもこどもの日ということで、教育について考えてみたい。このホームページの付属掲示板で教育問題が話題になって、とても楽しいおしゃべりだったんだけど(掲示板もときどきのぞいてくださいね)、そのなかでちょっと気になったことがあった。日本の教育システムが日本の構造改革を阻んでいるんじゃないかと思いついたわけ。もし本当だったら、これは深刻だね。一つの仮説だけれど、聞いてくれますか。

まず、今の受験中心の教育システムだけれど、その評価については議論が分かれるね。詰め込み教育こそ問題だから、もっとゆとりを持たせたカリキュラムにするべきだとする意見がある中で、それに反対する意見もあります。散人はどちらかというと現在の中等教育というのは相当いい線をいっていると思っている。若いうちは「ゆとり」なんって言わさずにがんがん詰め込みをするべきだよね。だって知識がないと考えることすらできないもん。考える力を付けさせる意味でも知識の詰め込み教育は意味がある。子供が「ゆとり」なんて言うのは10年早い。そう信じていたんだけれど、詰め込み式受験勉強もちょっと問題かなあといま考え直しはじめている。これは教育それ自体の問題と言うより、この教育(受験)システムがもたらす日本の経済社会への影響についてなの。

ご承知の通り、現在の受験戦争は相当激しいね。親も大変みたいだけれど、子供はもっと大変。かなりハードな勉強を相当期間続けなければ「いい大学」に入れない(らしい)。子供は遊びたい盛りだから、ふつうの場合、勉強はいやがる。それを親(特に母親)が無理矢理勉強させる。それ自体は大変結構なんだけれど、馬にニンジンのたとえじゃないけれど、子供にニンジンを見せびらかして勉強させるみたい。飴と鞭かな。「勉強しないとお父さんみたいにいつまでたってもうだつが上がらないよ」とかいうらしいから。それは致し方がないところもあるから、父親としては甘んじて許容するにしても、問題はニンジン(飴)の方ね。子供が「いい大学」にさえ潜り込むことができれば一生いい暮らしができる、今だけの辛抱よと教え込んで、子供がまたそれを信じてしまうらしい。

実際はそういうことはないんだけれど、そういう競争に一応勝ち抜いてきた日本社会のいわゆる中堅層(サラリーマンやお役人)は、あれだけしんどい受験戦争を勝ち抜いたんだからそれなりの「見返り」が生涯にわたって保証されて当然と考えるようになるみたい。その「見返り」というのが現行システムで享受できるいろんなフリンジベネフィットだと言うことであるからして、現行システムが変わってしまうと困ったことになる。「話が違う」という事態はどうしても避けなければならない。だからいかなる改革にも抵抗するものすごい保守的でマッシブな階層が大企業のサラリーマンを中心に形成されていくことになる。これはきっと受験指向の現在の教育システムのもたらす一番ネガティブな結果だと思う。

企業にはびこる体育会系のメンタリティーが、この「みんなの利益を守るために仲良く一緒にがんばろう」の動きをさらに強固なものとする。企業経営は当然「従業員第一主義」となりガバナンスが利かなくなる。諸悪の根元だな。

日本の中等教育制度は確かに世界に誇れるものがある。でもそれは所詮中等教育でそれ以上のものじゃない。一番の問題は、その子供のゲームのような中等教育での勝者に人生の特急券を渡す(と見なされている)現行の受験選抜制度。その意味で今般の中教審が発表した中間報告で、専門職養成のための文科系の大学院教育の充実を訴えたのは、ちょっと遅かったけれども、非常によかった。人生の特急切符というものがもしあるなら、それは子供にではなく大人になってから与えるべきで、その数ももっと少なくすべきだろう。大学生も大学院にはいるために勉強するようになるし、へんな選民意識もなくなるはず。

でもこういうことに真っ先に反対するのが、すでにシステムに潜り込んでいるいわゆる「エリート」たちなんだなあ。自分の立場がなくなると思うらしい。あなたもそうですか? やはり受験戦争が保守的な大量の「エリート」を作り出すという散人の仮説は当たっているみたい。

2002年4月5日金曜日

〔再録〕fj.books における楽しいお話。荷風の小説『来訪者』について、随筆『日和下駄』 についてなどなど

2002.4.5
fj.books における楽しいお話。荷風の小説『来訪者』について、随筆『日和下駄』
についてなどなど。新たな発見がいくつもありました。
永井荷風
------------------------------------------------------------------------------
投稿者(From) 余丁町散人
件名(Subject) 永井荷風
グループ(Newsgroups) fj.books
投稿日(Date) Sat, 29 Sep 2001 23:03:54 +0900
記事ID(Message-ID)
所属(Organization) Tokyo Metallic Communications Corp. -----------------------------------------------------------------------
<japan.life.seniorに書いたものだけど、こちらの方が適当なようなので>
吾輩が隠棲する余丁町というところは、新宿の街外れにしては開発が遅れた、やや雑
然とした街で、別段とり立てて自慢するほどのものはなにもないのですが、敢えてひ
とつだけあげるとすれば、この街にふたりの明治の文人が住んだことでしょうか。坪
内逍遙と永井荷風がそうです。
このうち坪内逍遙宅跡についてはすっと前から東京都教育委員会による看板表示があ
るのですが、荷風については長らく無視されており、その旧居跡を示す表示は余丁町
のどこにもありませんでした。ところが先週ようやく「永井荷風旧居跡」との立て札
が余丁町通りに建てられたのです。逍遙に遅れること実に十数年。でも熱狂的「荷風
ファン」を自認する吾輩にとってはまことに喜ばしいことで皆様にご報告したいと思
います。(教育委員会のえらい人は荷風なんて嫌いだったのでしょうね。「教育的で
はない」ということかな)
荷風が好きな人は、ほとんど例外なく年輩者。しかも男性と言われています。吾輩も
それを信じていたのですが、この前荷風について詳しい川本三郎の講演を聴きに行っ
たとき、聴衆に若い女性が結構多かったのには驚きました。最近荷風を見直す傾向が
顕著になっていますが、年輩者ばかりでなく若い女性にも理解されるようになってい
るらしい。まさに「後生畏るべし」ですね。(もっとも、日本近代文学の三本の柱は、
鴎外、漱石、それに「荷風」であると喝破した赤瀬雅子という比較文学の先生は女性
です。何事にも例外はあります)
でも、若い女性に理解者が広がったとしてもシニア世代にとっての荷風の魅力が減る
ものではありません。今度岩波から荷風の日記『断腸亭日乗』が改めて発刊されるの
も隠然たるファンが多いことを物語っています。ともあれ、徒然なるままに荷風散人
の文章にひねもす陶然と酔いしれるのは、吾輩の至福の暇つぶしであり、生活そのも
のとなっているのです。
すこし荷風について話しませんか。
--
余丁町散人 naoyuki_hashimoto@mac.com

2002年4月4日木曜日

〔再録〕ニュースグループ(fj.books) における楽しい談話  (荷風について、浅草について、岡山について etc.etc)

20024.4
Re: ふらんす物語
------------------------------------------------------------------------
投稿者(From) 余丁町散人
件名(Subject) Re: ふらんす物語
グループ(Newsgroups) fj.books
投稿日(Date) Tue, 20 Nov 2001 11:15:01 +0900
記事ID(Message-ID)
ようこそ!naoyukiさん!
------------------------------------------------------------------------
 Wataru Mizutani at mizutani@jrcat.or.jp wrote on 2001.11.18 10:19 AM:
>
>> 荷風は『フランス物語』を読んで感傷的すぎて「ひとり旅」を除けば
>> うんざりだったのすが、
『すらんす物語』の話が出たので、ひとつだけ。
ひとつだけといいましたが、もうひとつふたつ。
田辺聖子は荷風が大嫌いで、荷風の文章の中での女性蔑視(?)の言葉には「驚倒」
すると書いているのですが、彼女はそれでも『ふらんす物語』のなかの「祭りの夜が
たり」は楽しかったといっています。南仏のアビニオンで旅行者が女にスッテンテン
にされるお話ですが「恐ろしいのは南国の女だ」と荷風はすっかり恐れ入っています。
この辺が彼女のフェミニストとしての復讐心を満足させたようです。
「ひとり旅」は少々理屈っぽいところもありますが良いですね。最後に伯爵が「宮坂
のような変わった男、思想の病人が出てきたのは、すなわち日本の社会が進歩した複
雑になった証拠ぢゃないか。私は喜ばしいことだと思ふ」といってお終いになります
が、現在の日本はどうなんでしょうね。まだまだ「変人」の数が少ないようにも見え
ますが・・・。
--
余丁町散人 naoyuki_hashimoto@mac.com

2002年3月23日土曜日

クアハウスは楽しい



石和温泉に行ってきました
                 ..................
余丁町散人

年一回の人間ドック、今年は山梨県の石和温泉病院に出かけました。今まではずっと都内の病院での一日コースで能率的に済ませていたのですが、いまや時間がたっぷりある隠居の身、ちょっと遠いのが気になりましたが、せっかくだから温泉にでも入りながらのんびりと健康診断を受けようかと考えたもの。結果として大正解でした。

クアハウスは楽しい

富士山も綺麗に見えた

併設のクアハウスはとても快適で楽しめましたし、受診者本位のゆったりとした検診方式もなかなか良いものでした(都内の病院では受診者が自分でいろいろの診察室を巡回する方式をとっていますが、ここでは受診者は座ったまま待っておれば看護婦が来て案内してくれます。とてもいい気分)。ただ食事の量の多さにはちょっと閉口しました。「温泉病院」たる所以なのでしょうが、おかげで当分節食を続けなければならなくなりました。

帰りは時間があったので、河口湖、山中湖経由、一般道を通って帰りました。市街地を離れると日本の自然は十分残されており、咲き始めた花木が混じる山の緑は美しく、所々に散在する山の集落の風景も一つ一つちがった趣があり、とてもいいドライブでした。

でも東京に近づくと交通量が増え、街の風景も暑苦しくなってきます。一番渋滞したのはいわゆる郊外の住宅地といわれるところ。みんな車で移動するからでしょうか、極端に渋滞していました。

わが家に帰り着いたのは夕刻。昨日吹いた春一番のおかげで先週満開になったばかりのハナモモは相当花を散らしておりましたが、幸い遅咲きのハナモモ(白色)は影響を受けずにおり、満開の姿で我々を待ってくれていました。猫もいるし、やっぱりわが家は落ち着きます。

つらつら思うに
***

道中つらつら考えることがありました。一つには、日本の宿泊施設での食事の量の多さについて。いまや多くの客は「泊まる」為に旅館ホテルを利用します。でもいまだに日本の旅館では食事にこだわりすぎているような気がします。この十年で旅館の売上は4割減との統計もありますが、ニーズの変化を読み間違っておれば当然のことでしょう。

もう一つ考えたことは、日本の自然の素晴らしさにあまりにも対照的な市街地の景観についてです。広告、電柱が無秩序に立ち並び、はっきりいって醜い。日本もやることがいっぱいある。富士山の自然が美しかっただけに尚一層この思いを強くいたしました。

ちょっと「隠居の小言」みたいな近況報告となりました。

2002年3月20日水曜日

〔再録〕荷風とお岩さん


「荷風塾」学校通信
School News
2002.3.20 学校通信 No4
荷風とお岩さん
    余丁町散人「荷風塾」学校通信の第4号です。今回は余丁町からちょっと離れて、荷風と於岩稲荷の関係について。お岩さんといえば四谷左門町の田宮神社。余丁町から目と鼻の先です。当然荷風もここにお参りしたことがあるはずと睨んでいたのですが、違うんですね。別のところのお岩さんだったんです。これが今日のお話。

散人は年甲斐もなくお化けのお話が好きなんですが、荷風はさすがは合理主義者、あまりその類のお話は書いていません。でもその荷風にも「お化け小説」に近いものもがあるのです。それが昭和19年に書かれた小説「来訪者」。お話は、老齢期に達した作家(荷風)が偶然文学を語り合える二人の若い友人に巡り会う。しかし、結局彼らに裏切られ、失望落胆するというものですが、主人公の老作家(荷風)が書いた『怪夢録』というお化け話の原稿が重要な小道具として使われているし、また悪役になる若者は(その罰として)お岩稲荷のそばの越前堀の隠れ家で人間離れした淫女に苦しめられるという、荷風にしては珍しく「お化け小説」の色彩が強いものです。とても面白い。

ところがこの小説の評判は決してよくありません。為にするために書かれた陰険な個人攻撃の文書と見なされることが多いようです。確かに、この「悪い若者」のモデルとなった平井程一(アーサー・マッケンの翻訳者として知られている人物)はかなり迷惑を被ったようです。でも実際の平井程一は博覧強記の立派な人物であり、いまでも彼を師と仰ぐ人々は少なからず存在するようで、それらの人たちによって、平井程一先生を攻撃した荷風はとんでもない「陰険爺」だと書かれる、というのが実態のようです。




紀田順一郎『略して記さず』では
 たとえば平井程一に私淑した紀田順一郎は『略して記さず』と題した文章の中で次のように書いています。

<引用はじめ>
「荷風は『おかめ笹』という滑稽小説があるように、本来ユーモア感覚に富んだ人だが、この作品はジョークにもならなかった。終わりに近い部分で荷風が「京橋区湊町は越前堀のお岩稲荷の側」にあるという二人の隠れ家を探索に行く場面があるが、お岩稲荷は昔から四谷左門町にあるものと相場が決まっている。こうした初歩的なミスが生じたのは、是が非でも二人の人物を淫靡かつ矮小な世界(ここでは怪談)に押しこめることで頭がいっぱいだったからであろう。お常をお岩に見立て、真夜中になると人が変わって白井を追い回すという趣向により、荷風は単純な復讐心を満たしているのである。(中略)要するに、あらゆる意味で荷風の執拗な復讐心の現れた作品というしかない」
<引用終わり>

痛烈ですね。散人もお岩稲荷は四谷の左門町にだけあるものと思っていましたので、越前堀というのはお話を面白くするために荷風が設定したフィクションだろうと考えていました。しかし、昨年ネットニュース fj.books で久留さんという方から、当時お岩稲荷は越前堀に移転していたので、この点については荷風が正しく「初歩的なミス」をしたのは紀田順一郎の方だと教えて貰いました。いやあ、嬉しかったですねえ。さすがにネットの世界は広大です。いろんな物知りがいる。

早速、四谷の田宮神社(お岩稲荷)に赴き縁起を調べますに、その通りだと判りました。お岩稲荷の始まりは四谷左門町で寛永13年(1636年)に遡りますが、文政8年(1825年)の東海道四谷怪談の上演以降、歌舞伎役者を中心に参拝客が増え「於岩稲荷」として有名になります。しかし明治12年の火事で社殿が焼失し四谷から越前堀に移ったのでした。それが第二次世界大戦でまた焼失し、今度は四谷左門町、新川2丁目(越前堀)二カ所に再建したということのようです。荷風が「来訪者」を書いたのは昭和19年ですから、その時は於岩稲荷はまさしく越前堀にあったのでした。

散人はこの度「来訪者」をもう一度読んでみましたが、「筆誅の書」という印象は受けませんでした。東京下町の風景の描写もしっとりしていて、さすがは荷風とうならせますし、老作家の青春を惜しむ気持ちが、去っていった二人の若い友人への暖かい感情と重なって、むしろ荷風は二人を懐かしんでいるのではないかとさえ感じたくらいです。平井呈一氏と実際に会って話を聞いた秋庭太郎によれば平井程一本人は荷風をいっさい恨んではいなかったそうで、なんだか肯ける気がいたします。
荷風と越前堀のお岩さん
  『日乗』 S10.10.29
最近また『断腸亭日乗』を読んでいて、荷風が実際に越前堀の於岩稲荷に参拝していたことも判りました。昭和十年十月二十九日の記述です。

「晴れて好き日なり。・・・風静かなれば歩みて新大橋に至り船に乗りて永代橋を過ぎ越前堀の岸に上る。・・・河岸通りに聳える三菱倉庫(注:あとで荷風は住友倉庫と訂正している)の裏手に出でお岩稲荷に賽す。震災後この淫祠もいかがなりやと思いしに堂宇は立派に新築せられ参詣の人絶えず。・・・・大正のはじめ頃この淫祠の門前筋向かいの貸家にたしか荒川とやらいいし淫売宿あり。若き後家人妻など多きときは七八人も集いいたることもありき。今日もこのあたりの貸家には囲い者らしきもの多く住めるがごとし」

さすがは荷風です。十年近く前に散歩の途中に観察した場景をしっかり小説に再現しているのです。荷風の実地調査の綿密さにはいつもながら驚嘆いたします。

ちなみに散人の実地調査の結果では、東京には於岩稲荷と称するものが全部で四つあるようです。二つの田宮神社については上に述べた通りです。三つ目は四谷左門町の田宮神社の向かいに陽運寺というお寺で、その境内に「於岩稲荷」が祀られています。田宮神社が越前堀に移転していた間、留守を守ってきたのでしょう。更にもう一つ(四つ目)は四谷三丁目のスーパー丸正の入り口にあるセメントで作られた「於岩供養水かけ観音」です。買い物客が出入りの度に水をかけてお参りをしているので、ここのお岩さんが四つの中で一番「参拝客」で賑わっています。

左に掲載している写真は越前堀のお岩さんのものです。四つ全部のお岩さんの写真はアルバムに作っておきましたので下のリンクからご覧ください。

<追記 2002.8.15>
上記に引用した紀田順一郎氏の文章は荒俣宏編著『大都会隠居術』(1996)における引用を引いたもの(孫引き)です。しかし今般『紀田順一郎著作集第7巻』(1998)を入手、収録されている「日記の虚実 略して記さず」および「永井荷風ーその反抗と復讐」を調べましたが、同じ文章とはなっておらず「初歩的なミス」のくだりは入っておりません。荒俣宏氏は多分最初に出された『日記の虚実』(新潮選書1988)から引かれたものと推察しますが、その後紀田順一郎氏はその部分を書き改めておられます。

四つのお岩さん